オジサン NOW

還暦過ぎたオジサンのつぶやき

「自作スピーカー第3弾!着手①」

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今、3台目になる自作スピーカーの製作に取りかかっている。今度のは合板でスピーカー・ボックスを作っている。この合板はホームセンターに、寸法を書いた紙を渡してその通りに切ってもらった。正確でキレイに切ってもらえるし、切る手間がいらないので非常に楽だ。自作スピーカーを作っているプロも、切断はホームセンターに頼んでいる人が多いようだ。

今回は、今までのMDF材とは違って合板になるが、MDF材は木を細かく砕いたのを圧縮して固めて成形してあるので、表面はツルツルで切り口もキレイで、反ったりすることもまずない。合板は薄く切った木を貼り合わせてあるので、表面は普通の板のような感じで、種類によってはすべすべとしているが、切り口のところどころがわずかに欠けていたりする。表面も、荒い種類の合板もある。

取り扱いはMDF材の方が楽だが、専門家によるとMDF材よりも合板の方が(種類にもよる)、音は良い傾向になるそうだ。1作目で作ったスピーカーはMDF材だったので、今度の合板のと音がどう変わるのか楽しみだ。仕様は、スピーカーユニットなどは1作目と同じだが、今回はビス留めは一切しなくて、木工ボンドで全て接着する。

前面のスピーカーユニットの穴と低音を出すパイプの穴と、後ろのスピーカーターミナルを取付ける穴の3ヶ所を何とか開けてから、早速バラバラの組立前の状態でスプレー塗装をしてみた。まず、気がついたのはMDF材と違って表面がツルツルしていないので、小さな凸凹が出来た。これは、細かい番号の紙やすりで磨いたらツルツルになった。

それと、合板の一番上に貼ってある薄い木材には木目があるので、MDF材の時はそんなことは考えなかったが、今回は表板と裏板の木目が横になってしまった。塗装を厚く重ねて凸凹をなくして木目を消して、完全に平面にしてしまえば問題はないのだろうが、木目が少しでも残ってしまったらどうなのだろうか。

塗装をする前に、紙やすりをかけてツルツルにして、その後に濡れた雑巾でその粉などをきれいに拭いた。しかし、ホームセンターで売っていた使い捨ての布きれで拭いたら、合板の場合は材質が荒いので、小さなささくれに雑巾の小さな糸がたくさん引っかかってしまい、なかなか取れなかった。それで自分の古い下着を切った布で拭いたら、今度は大丈夫だった。こんなことも、MDF材と違っていた。

まず、片方のスピーカーボックスの各部材の表面をスプレーして、仮組立てをしてみて気づいた。表面の木口が塗装されていない。それと、この組み立て方ではマズいのではないか。表面と裏面は、木口が出て来ない、継ぎ目のない1枚板でなければならないのではないかと。

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タイトボンドというのは、ギターの製作にも使っていて、うまく接着すると非常に強力で無理やり剥がそうとすると、木がバリバリと剥がれてくるほどだ。タイトボンドなら、スピーカーを乱暴に扱っても、ガンガン音を鳴らしても、剥がれることはないだろうと思った。うまく接着すれば大丈夫だと思うし、2作目のメーカーの担当者にも聴いてみたら、接着剤だけでビスを使わなくても大丈夫だと言っていたが、しかし、上手に接着することが前提だろう。

接着する面のホコリを濡れた布でキレイに拭き取り、その後、完全に水分がなくなったら、タイトボンドを接着する双方の面に多めに塗り、一度軽く擦り合わせてから重しをかけるか、クランプできつく締める。この時に、接着面からタイトボンドが少しはみ出るようでなければ、面と面が完全に貼り合わさっていない。はみ出たタイトボンドは濡れた雑巾などですぐに拭き取ると、後で固まって、塗装の時に塗料が乗らないということがなくなる。

ということを、実は数年前に簡単なギター製作を半年間習いに行った時に、先生からボディの接着や裏面のブレースという木片を貼る時に、教えてもらった。それと、塗装の時に缶スプレーを買ってきて塗装をしたが、最初から結構上手くできたのであれっと思ったら、ギター製作の時に、コンプレッサーでの吹き付け塗装を少しだけ教えてもらったことを思い出した。あれが、今回のスピーカー作りに、少し役に立っている。

次はいよいよ組み立てだ。接着が、果たして上手く行くかどうかだ。気合が入っている時に、一気にやってしまおう。ということで、続きがいつになるのか自分でも予想が付かない。若い時は、夢中になると毎日続けてやったのだが、歳のせいか完成までに時間がかかる。しかし、こうして試行錯誤してやっているが、失敗しながら作って行くのも楽しみだ。

《北京・上海 5日間》 

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2008年の5月7日から5月11日の4泊5日で、北京と上海を巡るツアーに行った。イタリア旅行の翌年だったが、今度は中国株のトレードをやっていたこともあって、中国はどうなっているのかと実際に見てみたいと思った。旅行代金もかなり安く、本州に旅行に行くよりも安かった。

新千歳空港からまず上海空港に行き、そこで5時間も待って北京空港に向かったが、あまりにも長くてイヤになった。夕飯は上海空港で尋ねた中国人らしい人が教えてくれたが、日本食店だった。本当は中華料理を食べたかったが、わざわざ日本食の店の前まで案内してくれたので、仕方なく食べた。

そうして北京空港に到着したが、その時に恐怖体験をした。待っていた若い男性の現地添乗員に車のところまで連れて行かれたが、それが暗くて広い、怪しい地下を延々と歩き続けて行く。段々と不安になり「もしかしたら、このまま殺られるかもしれない」と思った。女房も、同じことを思っていたそうだ。それくらい怖かった。そのうち、マイクロバスが待っているところに着いて、何ごともなくホテルに無事に着き、ホッとした。

ところでこのマイクロバスの運転手さんは、我々夫婦と同ツアーの日本の中年女性2名の計4人を乗せて観光で移動している時に、平気で隣の車の運転手と窓を開けて、大声で喧嘩していた。我々のことは眼中に無いようだった。添乗員の男性は以前日本の九州の大学で学んでいたらしく、同じ中国人として恥ずかしいというような顔をしていた。

2つのホテルに泊まったが、両方共、呆れてしまうほどの超デラックスな部屋だった。このツアーは「ホテルと食事にこだわる 北京・上海 5日間」というだけあって、特にホテルはすごくて、まさかこんな豪華な部屋に泊まれるとは思いもしなかった。

部屋は広いし、大きな窓からの眺めは素晴らしく、設備も何から何まですごくて驚きだらけだった。この部屋の大きな窓から目の前に「黄浦江」という大きな川が見えて、そこを商船が行き来しているのが見えた。実に素晴らしい眺めで、いつまでもずっと眺めていた。

ただ、同じツアーで一緒だった建築屋の社長の奥さんは「風呂のタイルの間のコーキングなどの仕事が雑で隙間があるし、日本ではこんなことはまずない」と言ってた。確かに細部を見ると、どれも雑だった。ロビーもエントランスも何もかもが馬鹿みたいにだだっ広く、そこにでかい木材がドンと横に倒して置いてあったりする。これが中国なんだと納得した。「大きいことは、いいことだ」ということらしい。

旅行の帰りに、近代的な建物と言われている上海空港で、建築屋の奥さんが 「なにが近代的だあ~!」と大きな声でゲラゲラ笑って、トイレから出てきた。使用後に、尻を拭いた紙を便器のそばにあるゴミ箱に入れるようになっており、それをトイレに常駐している担当のオバサンが火バサミのようなもので、その紙を次々とゴミ袋に入れているというのだ。「どこが近代的なんだあ~!」と何度も言って、大笑いしていた。

ところでこの奥さん、大雑把な人で愛されるオバサンだったが、マイクロバスの中で「すかしっ屁」をしたときは、ちょうど後ろにいた自分は、あまりの臭さに倒れそうになった。この奥さん、そんな自分をチラッと振り返って、笑いをこらえていた。とんでもないオバサンだった。

北京では天安門広場と故宮を見たが、とにかくスケールが大きく、人口が日本の10倍で、面積などは日本の25倍もあるからなのだろう。上海では、「豫園」という賑わっていた商店街を歩いて観てきた。スターバックスがあって、飲み物を頼んで飲んだ。他にも外人がたくさんいた。上海は国際都市なんだと思った。

この時の旅行で一番感激したのは、ホテルの豪華さと、そこからの眺めだった。確かに、ビルの建設ラッシュで大きな建物がすごく多くて、札幌どころではないと思ったが、ただ外観はそうだが中身の方はどうなのだろうかと思っていた。今は、あれからもう10年経っているので、もっと中身の方も充実していると思うのだが。

「イタリア旅行」

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2007年の5月7日から5月15日の8泊9日で、イタリア旅行に行った。なんと前年のフランス旅行に引き続きだ。前年のフランス旅行は、もう死ぬかもしれないと思い、老後のために貯めた金も使ってしまえと思ったが、あれ以来「なんとかなるだろう」という太っ腹な気持ちになっていた。それと、リーマンショックの前年だったので、まだ余裕があった。

ということで、成田空港からロンドンのヒースロー空港が給油の中継点だったので寄ったが、テロがあった後だったので警戒が厳しく、小さいペットボトルなどもすべて飛行機には持って行けず、検問を通るのにすごい時間がかかった。液体爆弾を警戒していたらしい。なんでも爆弾になるから怖い。

長時間、列に並んで待っていた時に、ニューヨークで活躍しているジャズピアニストの秋吉敏子さんが、一人で颯爽と歩いているのを見つけた。自分は外国で結構、有名人を見つける。新婚旅行でスイスに行った時も、空港で荷物が出てくるのを一人でポツンと待っていたソフィア・ローレンを見つけて、一緒に記念写真も写してきた。

ヒースロー空港からイタリアに向かい、ローマに到着した。ローマではバチカン市国に行き、バチカン美術館、システィーナ礼拝堂を観てきた。システィーナ礼拝堂の天井に描かれたミケランジェロの「最後の審判」も観たが、どうも自分は何を観ても実感が湧かず、それほど感動しない。女房などは、すごく感動していた。

その後、ローマ市内でサンピエトロ寺院、コロッセオ、トレビの泉などを見た。とにかくローマは町全体が遺跡という感じで、昔あった建物の上に次々と建物を建てているので、ローマのどこを掘っても遺跡が出てくるらしい。そのときも、工事中に昔の市場の跡が出てきたと掘っていたが、その規模がすごくて地下都市のようだった。       

ローマのあとはピサの斜塔を観にいき、フィレンツェ、ベネチア、ミラノという順に観光した。フィレンツェは丘から眺めたが、ほとんどの家の屋根がレンガ色で、町の真ん中を川が流れていて、とても情緒のあるところで、なにかしら落ち着く街だった。

ベネチアには鉄道とボートで行ったが、街中は少し臭った。ツアーで一緒のオジサンがみんなに「これは海の臭いだ!」と得意げに話したのを、自分と女房は黙って聴いていた。後でホテルに戻って「何が海の臭いだ!海の臭いなら、海の町で生まれ育ったからイヤでも分かる。あれはゴミの臭いだ」と女房が笑っていた。ゴミ臭いベネチアだった。    

今回の旅行も、行程が結構ハードで、自分は相変わらず観光してる間、座るところを求めてさまよっていた。美術館などで同ツアーの高齢のオジサンやオバサンと真っ先に椅子を探して、椅子取りゲームみたいになったが、51歳の男が必死になって70歳以上の高齢者と、イス取りをしているのだから情けない。

あるとき、別の日本のツアーで来た40代くらいの夫婦が、階段のところで疲れたように座っていた。色々と話をしてたら「自分達のツアーはパンフレットが〇色だから、巡るところをたくさん詰め込んで、日程がすごい。もうクタクタだ」と言っていた。

何色だかのツアーのパンフレットが、とにかく名所を多く詰め込んでいる割には安いということらしい。その次が、自分達のツアーのようだった。だから疲れるんだなあと、納得した。

今回の旅行も、前回と同じく隣の市にあるイオンの中の旅行代理店で、ツアーの手配をした。店員は親切で良かったが、新しく来た支店長がすごく感じの悪い男で、何か聴いても返事をしなかったり、答えても人をひどく小バカにしたようなことを言うので、さすがに大人しい自分も腹を立てた。

旅行から帰って来てから、「職員の対応はどうでしたか?」というアンケート用紙を、ツアーの帰りの飛行機の中で添乗員から渡されていたので、その支店長に対しての怒りを書いて出した。すると数週間してから、その支店長からお詫びの手紙が自宅に届き、降格になるようなことが書かれていた。

それから1年ほど経った頃に、イオンの中に有るその支店の前を通ってトイレに行こうとしたら、トイレに向かって自分の前を歩いていたスーツを着たオジサンが、急にくるっと自分の方に振り返り、深々と頭を下げた。あれ?と思ってよく見ると、あの支店長だった。

気の毒なくらい情けない顔をして、あの時の威張った感じがまったくなく、老人のようだった。「だから、威張っちゃいかんのだよ!」と心の中でつぶやき、自分も軽く頭を下げて顔を上げたが、支店長はまだずっと頭を下げたままだった。自分は気まずくて、トイレに行くのをやめて引き返した。少し可愛いそうにもなったが、自業自得だ。

第一、客に威張る馬鹿がどこにいる。それにしても、これほどアンケートの苦情の効果があるとは思わなかった。支店長、降格になったのだろうか。

「血死?の覚悟のフランス旅行」

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今から13年前、2006年5月8日から5月15日の7泊8日で、1週間のフランス旅行に女房と行った。「モンサンミシェル地区に泊まりたい!パリから世界遺産を訪ねて8日間」というツアー名だ。海外旅行は25歳の時に一人で行ったのと、新婚旅行でも行ったのとで、15年ぶり3回目の海外旅行となった。

海外旅行はこの先行くことがないと思っていたが、急遽行くことになったのは、突然の大量の血便と血尿がきっかけだった。色々な病院で検査したが原因が分からず、結局ストレスということで片付けられた。それで、自分はもう死ぬのではないかと真剣に思った。それなら死ぬ前に、自分も女房も夢であった海外旅行に行こうと思った。

今まで、老後のために贅沢はできないと思っていたが、もう自分の老後はないかもしれないと思って、行くことにした。すると、この旅行に行く前に突然、血便と血尿が止まった。ただし、体調は良くなくて不安いっぱいの旅行だった。

女房は喜んで、ずっとハイテンションだったが、旅行の行程がかなりハードで、自分は毎晩ホテルに着くと疲れ果てて、ぐっすり眠った。観光している間は、体調が良くないので座る場所ばかり探していて、同じツアーの高齢のオジサンやオバサン達と、イスの取り合いになった。まだ50歳なのに、情けない話だ。

観光したところは、シャトル大聖堂、モンサンミシェル、フォンテーヌブロー城、ベルサイユ宮殿だ。モンサンミシェルは、すごく感動した。パリ市内からずっとバスで田舎を走っていたら、右手の平野の向こうにポツンと一つだけ異様にそびえ立つ山のようなものが見えてきた。

そして、それが徐々に近づくにつれて次第に大きくなっていき、山ではなく、海の中の島の上に立っている修道院だと分かった。当時の人たちはとてつもないものを造ったものだ。修道院を取り巻く格好で、住居や店舗やホテルなどが建っていた。一つの島が、街のようになっている。

このフランス旅行は、モンサンミシェルに尽きる。あれを見ただけで満足だ。それくらい、インパクトが強かった。それと、それ以外にも色々なところを観ているが、どこに行っても座ることが第一で、観ている余裕がなかったのか、記憶はあまりない。

ということで、血死の思いで行った旅行だったが、旅行の間は出血はなかったし、その後もなかった。いったい、あれは何だったのだろうと思うが、医者の言う通りストレスだったのだろうか。結果としては、思い切って旅行に行って良かったのかもしれない。

「初めての旅行、海外旅行」

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《1980年 7月9日~8月28日 約50日間》

大学を卒業して札幌の会社に2年間勤めた後、思い切って欧米旅行をしようと思った。それまでは、かなりの出不精で、そして旅行嫌いで、1人ではバスや鉄道にも乗れないと思っていたのだから、自分としては清水の舞台から飛び降りるくらいの大決断だった。まあ、そこに至るまでの色々な悩みがあったので、このままで終わりたくないという一心だった。

旅行に出た時の格好は、半袖のシャツに前の会社の作業ズボン、そしてショルダーバックを肩から下げていた。旅行の途中で知り合った日本の人達は、自分のこの姿を見て「これしか荷物がないんですか!」と驚いていた。マウンテンパーカーと長袖シャツとTシャツ、着替えの下着が2枚づつと洗面道具、それと小型カメラくらいで、それ以外持っていく物は考え付かなかったが、結局それだけで充分だった。

ただ、旅の中頃には荷物が20キロ以上になり、歩いている途中でショルダーバックの紐が切れた。途中で知り合った日本の学生は、このショルダーバックが重くて持てなかった。仕方なく途中で大きなリュックサックを買った。何故、荷物がそれほど増えて重たくなったのかというと、美術館や色々な観光施設を観にいく度に、無料のパンフレットをたくさん持ってきたからだ。

アメリカに渡ったときにはどうにもならなくなり、ダンボールに詰めて船便で実家に送ったが、結局そのパンフレットはほとんど捨てることになった。でも、そんな重い荷物を背負って歩いたおかげで、体重はみるみるうちに短期間で激減した。腹が少し出ていたのが、完璧に引っ込んだ。

旅行の期間は、1980年の7月9日~8月28日までの50日間だった。7月9日の朝に札幌を出て、千歳空港 から羽田空港、そして成田空港と行き、当時は飛行機賃が一番安かった大韓航空で、最初の目的地パリに向かった。パリでは、飛行機で一緒になった横浜国立大学でフランス文学を教えていた先生と、東京在住のフリーカメラマンの3人と同宿で1週間滞在した。

その後1人で鉄道で、オランダのアムステルダム、ドイツのケルン、船でライン川下りではなくライン川上り、再び鉄道でマインツ、フランクフルト、バスでロマンチック街道、鉄道でミュンヘン、オーストリアのリンツ、ウィーン、インスブルック、スイスのインターラーケン、ツェルマット、そしてまたパリに戻った。

パリには1週間ほど居てからロンドンに行き、1週間ほど居てから飛行機でアメリカのNEWWORK空港に着き、ニューヨークのバス・ディーポからバスで、シカゴ、デンバー、ラスベガス、グランドキャニオンを横断し、ロスアンジェルスとサンフランシスコに数日間滞在して、日本に帰って来た。結局、ヨーロッパに34日間、アメリカに16日間居たことになる。

旅行の行き先は、事前にだいたい決めていた。治安の良くないアムステルダムに1泊したが、あまり居たくないところはサッサと切り上げて、次に向かうようにした、その時の気分や、その時に丁度来た列車に乗ったりした。かなりいい加減だったが、それでもヨーロッパをぐるっと廻って、イギリス、そして最終目的地のアメリカに行けたので、何とかなるもんだ。

アメリカに着いてから、実家にコレクトコールで初めて電話した。お袋が出て、いきなり怒られた。1ヶ月の日程を2週間ほどオーバーしていたこともあり、両親は「あんな息子は、死んでいないものと考えよう!」と話していたそうだ。旅行から帰ったら実家に戻り、仕事を手伝うことになっていたが、全然帰って来ないので、怒っていたようだ。

東京に着いた時は夜中で、金が2千円しかなく、学生の頃に下宿していた飯田橋の近くの神楽坂にあった連れ込み旅館を探した。しかし、1人では泊まれなくて、金も足りなかった。何件も断られて、最後にボロボロの旅館を見つけたが、500円ほど足りなくてダメだと言われ、帰ろうとしたらズボンのポケットで、ジャラジャラと音がした。500円くらい入ってた。それも足して、何とか泊めてもらった。

翌日、当時の北海道拓殖銀行の支店がある駅までの電車賃を数百円残しておいたので、支店に行ってキャッシュカードでお金を下ろした。当時は、今のATMとは違って自分の預金している銀行でないと、お金は下ろせなかったと思う。その日の内に飛行機で北海道に戻り、少しの間札幌にいてから実家に帰った。

この旅行では本当に色んなことがあり、とてもじゃないが語り尽せない。怖いこともあったし、考えさせられることや、楽しいことや、感動したり、素晴らしいこともたくさんあった。50日間の旅行だったが、この旅行がきっかけで、自分の人生観が少し変わったことに、3年ほど経ってから気づいた。

旅行に行く前の会社時代では、すべてに打ちのめされ、コンプレックスの塊で、自分は他の人よりも劣ると思っていた。それが、旅行から帰って来たら、不思議と前向きな考え方になっていた。その考えは、今でもずっと続いているような気がする。おそらく、あのとき思い切って行って、良かったのだろう。もう40年も経つんだな。

 

※画像はロンドンの「アビーロード」にて。ビートルズのジャケットの横断歩道だ。

「映画 ショーシャンクの空に」

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もう、何度も何度も観ていて、自分が今まで観た映画の中でベスト1なのが、「ショーシャンクの空」だ。他にも好きな映画はたくさんあるが、爽快で面白いのがこの映画だ。原作は、あのスティーブン・キングで、怪奇ものとかホラーとかいうイメージが強いが、こんなにしっかりとした、素晴らしい作品も書いているのかと驚きだった。原作は、「刑務所のリタ・ヘイワース」という中編小説だ。自分以外にも、この映画をベスト1という人が多い。                             

主演はティム・ロビンスだが、これほどのはまり役はないだろうと思う。これ以降の映画で、彼が出演しているのも色々と観たことがあるが、ほとんどがパッとしない。共演のモーガン・フリーマンも、地味だが味のある渋い演技ですごく良かった。当時は彼のことをよく知らなかったので、後でこの映画をまた観たときに、「あー、あのモーガン・フリーマンだったのか?」と気づいた。刑務所の所長役も主人公の周りの囚人役も、それぞれがこの映画の役に溶け込んでいて、いい映画というのはこういうものかと思った。                                   

この映画のストーリーは、主人公が自分の妻とその愛人を殺したという無実の罪に問われ、終身刑の判決が下ってショーシャンク刑務所へ服役することになり、そこから所長の陰謀などに苦しめられて絶望の淵に立たされる。そして、最後の最後に大逆転があってハッピーエンドという、痛快で単純なストーリーだ。しかし、それを最初から最後まで退屈させず、最後のクライマックスまで持って行く展開が素晴らしい。

脚本と監督の手腕なのだろう。フランク・ダラボンという監督はそれほど作品を監督していなく、主に脚本と製作をやっていて、作品は初監督の「ショーシャンクの空に」の5年後に、「グリーンマイル」、その2年後に「マジェスティック」、その6年後に「ミスト」の計4本だけだ。その3本も観た記憶があるが、まあまあだったかな。      

この「ショーシャンクの空に」は、今ではかなり評価されて、映画のベストものにはほとんど入っているが、当時は興行的には成功したとはいえなかったようだ。ただ、批評家達からの評価は高かったようで、アカデミー賞にも7部門でノミネートされた。しかし、受賞には至らなかった。

この映画は当初違う監督にオファーしていて、その監督はティム・ロビンスの主人公役に”トム・クルーズ”、モーガン・フリーマンの役には”ハリソン・フォード”を充てる構想を提案していて、フランク・ダラボンはこの構想を気に入っていたが、結局自分自身が監督をすることに決めたので配役も見直して変えたそうだ。

もし、”トム・クルーズ”と”ハリソン・フォード”だったら、この映画はどんな風になっていただろうかと想像するだけで楽しいが、この主人公役にはティム・ロビンスしかいないと思わせるほどのはまり役だった。そして、モーガン・フリーマンも。

自分もこの歳になると、映画の中で高齢の囚人が出所した後に誰も知らない世界に出され、元の刑務所の生活を懐かしんで孤独感を味わい、モーガン・フリーマンも出所してから同じような道をたどって行った気持ちが、よく分かるようになった。その辺の描写も実にうまく、ただの脱出劇で終わらない映画だ。

「映画 サウンド・オブ・ミュージック」  

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レンタルDVDを借りて来て、久しぶりに懐かしい映画を観た。この映画は確か中学生の頃にTVで初めて観たと思うが、最初は「ミュージカルか~!」と期待しないで観た。しかし、予想に反して観ていく内に、スリルのある非常にスケールの大きい展開に、すっかり魅入ってしまった。初めの方は、有名な”ドレミの歌”や”エーデルワイス”が歌われたりして、のどかな感じでずっとこんな風に続くのかなと思っていたが、そうではなかった。

この映画は、「実話が元になっている」というのがすごいところで、舞台は第2次世界大戦中のオーストリアのザルツブルクで、ヒトラーがオーストリアを統合することになり、反ナチスの主人公の家族がドイツ親衛隊の厳しい監視を逃れ、アルプスを越えてスイスへ脱出するという緊迫感あふれるストーリーだ。               

この実在した家族は、逃亡したスイスからフランス、イギリスへと渡り、イギリスからアメリカに渡って永住した。アメリカに渡ってからは「トラップファミリー合唱団」として演奏旅行で身を立てていたが、かなり生活は苦しかったようだ。そして渡米してから3年後にバーモント州に自分たち家族だけで手作りの家を建てて住んだ。

現在は、そこに「トラップ・ファミリー・ロッジ」というホテルが出来て、たくさんの客が訪れているそうだ。数年前にNHKBS放送で「サウンド・オブ・ミュージック マリアが語る一家の物語」というドキュメンタリーが放映されたが、この家族の次女である“マリア・フォン・トラップ”が、オーストリアでの子供時代の思い出から、アメリカに移住してからの苦労などを語っていた。                   

1965年に公開された映画で、今から50年以上も前の映画だが、今見ても面白く、素晴らしい映画だと思う。主演のジュリー・アンドリュースは「メリー・ポピンズ」で、アカデミー主演女優賞を獲っている。ところで、こうしてこの映画のことをネットで色々と調べていたら、面白い話しを見つけた。

自分は、オードリ・ヘップバーン主演のミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」の歌の吹き替えが、ジュリー・アンドリュースだと今までずっと思っていた。しかし、“マーニ・ニクソン”という、一般的にはほとんど無名の歌手が歌っていた。

この人は、「王様と私」、「ウェスト・サイド物語」、そして上記の「マイ・フェア・レディ」という、ハリウッドミュージカルを代表する名作の主演女優の歌声を、すべて吹き替えているというすごい人だ。                         

ただ、この人の容姿も分からず、映画のエンド・クレジットにも名前すら出なかったようで、その内に熱心なファンの声があって、「サウンド・オブ・ミュージック」で初めて修道女“シスター・ソファイア”役として、晴れてスクリーンでその歌声と姿を披露することになった。

挿入曲「マリア」でマリア役のジュリー・アンドリュースと競演し、映画のラストでは、ナチス憲兵隊の車からエンジンの部品をこっそりと取り外す、という役を演じている。今回は、そんなことも注意して観てみた。映画は、そういう裏のことも色々と分かると、さらに面白い。

「テレビを見ながら、エアロバイク」

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ダイエットや運動不足解消のために、40代の頃から色々な運動器具を試して来た。エアロバイクから始まり、ステップの足踏み器、ウォーキングマシーンと色々とやって来たが、一番長く続いたのがウォーキングマシーンだった。一時期、親子3人でウォーキングマシーンを使っていたが、その内、誰も使わなくなった。自分も腰を痛めてからは、使うことがなくなった。

そして今は、2年前に買ったエアロバイクで運動しているが、前の記事にも書いたが「腰部脊柱管狭窄症」というのは、背中を反らすと痛むが、背中を丸めると痛まないので、自転車や室内でのエアロバイクでの運動が、医者から推奨されている。実際にやってみたら、腰はまったく痛くなく、快適に運動が出来るので続けている。

この室内のエアロバイクの運動だが、続けるには「あることと、ペア」でないと長続きしないことが、ウォーキングマシーンで運動していたときに分かったので、今回もそうしている。それは、録画しておいた「好きなテレビ番組」を観ながら、運動することだ。ただ運動だけしていたら、とにかく時間が経つのが長くて大変だが、好きなテレビ番組を観ながら運動すると、あっという間に時間が経つ。

今のところ、お気に入りは「開運!なんでも鑑定団」、「踊るさんま御殿」、「YOUは何しに日本へ?」、「カンブリア宮殿」、「ガイアの夜明け」、「未来世紀ジパング」、「二代目和風総本家」、「ブラタモリ」、「ファミリーヒストリ―」、「プロフェショナル」などだ。

これを毎週録画しているが、週に3日くらい運動して1日1回40分ということなので、早見再生で見ていても2番組がやっとなので、次から次と録画している番組が溜まって行く。あまり溜まるとハードディスクの容量が一杯になり、次の予約が出来なくなるので、仕方なく番組を選んで削除している。もう、録画したテレビ番組を観ることなしで、エアロバイクを続けるのは不可能と言ってもいいだろう。

「”かつや” のカツ丼」

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江別市野幌町の12号線と白樺通りの交差点のところに、丼物専門店の”かつや”がある。この手の飲食店には、今までまず来ることがなかった。牛丼の吉野家には、学生時代に2~3回入ったくらいだ。″かつや”も、カツの肉は脂身のないボソボソした味気のない木っ端みたいな、いかにも安くて旨みのない肉だろうと思っていた。それで、あまり期待しないで入ってみたが、これが予想大外れだった。

カツも御飯も量があるし、今まで食べた安価な豚肉とは違って、脂身にしっかりと旨みがあって美味い!「一緒にいかがですか?」と勧められた豚汁やサラダなどは頼まず、テーブルに置いてある、無料の大根の漬物をカツ丼の器の中にたっぷり入れ、無くなれば何度も補充する。

自分のカツ丼の食べ方は、最初にタレの染み込んだ御飯をカツの下から掻き出し、少しのカツと大根の漬物でほとんど食べてしまい、最後に残った多くのカツだけを贅沢に味わって食べる。ここのカツは、噛んでいるとジワっと旨みが出て来る。これほどのカツ肉は、他ではまずないと思う。

カツ丼の一番下のランクの梅で529円(税込)だが、精算時にレジで渡される100円割引券を使うと429円(税込)になる。ワンコインの500円より、まだ約70円も安いのだから驚く。これが700円とか800円とかの金額ならば「美味いが、そうは来れない」と思うところだ。

この美味さと、量と価格の安さに満足して、レジでの支払時にまた渡される割引券を手にして、「また来よう!」と思う。このかつやで、食べることを楽しみにしている。コストパフォーマンスがいいねえ。オジサンのささやかな楽しみだ。

「同じ話を何度も」

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数年前から、人の名前や映画のタイトルなどがかなり思い出せなくなった。考えても考えても、サッパリ頭に浮かんでこない。用事があって自室から居間に行ったり、他の部屋に行ったりする時も、途中で「あれ、何しに来たっけ?」とか、買い物に出かけても「あれ、どこに行くんだったっけ?」ということが多くなった。

それで、これも歳のせいだとずっと思っていたが、数日前の或る記事に「何でも歳のせいとかボケて来たとか思うよりも、そうではないと思った人の方がそうなる可能性は少ない」とかいうようなことが書いてあったのを読んで、成程そうかもしれないと思うようになった。

よく考えてみたら、若い頃にも考えごとで頭の中が一杯の時やボーっとしている時にそんなことがよくあった。人の名前を覚えられないのは特技と言ってもいいくらいダメだったから、それを今さら「歳のせいとか、ボケて来た」なんて言ってもね。

或る本には、「歳を取ると、若い頃よりもものごとを深く考えるようになる」と書いてあった。自分にとって、もうそれほど必要でないことを切り捨てたり、忘れるようにしているのかもしれない。断捨離が流行ったように、確かに歳を取ると捨てるものが色々とある。判断力も決断力も鈍くなったのではなく、より深く考えるようになったので、結論を出すまでが遅くなっているのではないだろうか。

そういえば、以前老人ホームの管理人をやっていた時に、介護士さんが認知症の入居者さんのことを「認知症の人は何も分からないと言うけれど、実際はすごく人のことを観察していて、きちんとやっている介護士の言うことは素直にきくけれど、そうでない介護士さんに対しては厳しい態度をとったりします。よく見ていますよ」と言っていたことがあった。

そして自分も実際にその場面を見たことがあった。或る面は衰えて来るけど、逆に或る面が研ぎ澄まされて来るのだろうか。5年くらい前だが、我が家の玄関に迷い込んで来た認知症のお婆ちゃんがいた。女房が警察に電話をしに家の中に入った時に、少しだけ自分が相手をした。

やはり想像した通り、同じ言葉の繰り返しやわけの分からないことばかり言うので適当に返事をしていたら、突然「違う!だからさっき言ったでしょ」と怒られたことがあった。いい加減に返事していると、怒られる。参ったなあと思った。

それと「歳を取ると、同じことを何度も言うようになる」とよく言われるが、自分の父親がそうだった。「ウワー!また、始まった」とよくお袋と陰で顔を見合わせて笑っていたが、自分もあの時の父親と同じくらいの歳になり、やはり人と話していると同じことを何度も言っている自分に時々気づく。

ただ、それは相手も自分が前にした話をもう忘れているだろうと思ったり、どうせたいして聴いていないのだから覚えていないだろうと思って、分かってはいるけど同じ話をしているつもりだ。しかし結局これがそういうことなのかと思ったりする。

それと相手が無口の場合、自分は間が空くのが耐えられない性格なので、次から次ととりとめのないことを話し続けるのだが、その時に話すことが無くなって前に話したことでも話してしまうことがある。ということなのだが、説明すればするほど言い訳がましくなるので、この辺でやめておこう。