オジサン NOW

還暦過ぎたオジサンのつぶやき

「”節約の鬼”と化した自分」

物がなんでも高くなり、生活が厳しくなっていく一方なので、節約をしなければと、色々な支出を見直している。そのために、今年から家計簿をつけることにした。しかし、面倒でなかなか記帳しないので、レシートが山のように溜まる。それを頑張って、何度も一気に記帳している。

記帳して1か月単位で見直してみると、色んな事が見えてきた。今年の1月から記帳しているが、だいたい月の現金支出額は、7万円~11万円の間だった。多かったときは、孫関係や病院関係があるときで、特別な出費があったときだ。まだ頑張れば、なんとか月7万円でやれるような気がする。

自分のところは、夫婦の食事は別々なので、食費は結構かかる。パートの日もあるので、昼飯はコンビニやスーパーの弁当になるが、500円前後のものにしている。自炊は、以前やったがあきらめた。大好きなオヤツはかなり我慢してるが、1日200円~300円くらいは使う。毎日なので、300円でも月に9千円になる。なんとかしたいところだが、甘い誘惑にはなあ~。

       

後は、水道光熱費や各保険料、リフォームローンや車両費、Amazonの商品や契約などのクジッとカードで銀行から引き落としになる支出だ。これも、一覧表にして見直しているが、クレジットカードが3種類あって、さらに事情があって別の銀行からの引き落としもあり、非常に分かりづらい。それで、エクセルで一覧表を作り、記入することにした。エクセルは便利だな。

固定費の水道光熱費も見直したが、北海道は冬季間の暖房費が、かなりの金額になる。今までは、元の子供達の居た2部屋も、パネルヒーターを最小にして点けていたが、これからは自分の部屋と女房が生活している居間以外の部屋の暖房は、切る予定だ。これで、暖房費が少しは違うはずだ。

月1,500円の傷害保険もやめるつもりだ。このブログに使っているイラストは、「イラストAC」というのを契約して使っているが、他に「写真AC」というのも誤って契約していたことが分かった。写真の素材はまず使わないので、解約だ。年間7,700円も払っていた。スマホは、やっと今年6月から機種代を払い終えて、約半分の2,600円くらいになった。

 

      

 

車の保険料が今回はえらいことになった。今までは4万円くらいだったのに、ちょっと駐車時にコツンとぶつけたら、相手の車のバンパーが全部交換になり、保険を使ったら、今回の保険料は一気に6万円に跳ね上がった。ぶつかった車の中で寝ていた、オヤジの顔が思い浮かんだ。あのオヤジが居なきゃ、サッと逃げて離れた場所に停めたのに。

車検も来年1月にある。今まで、ずっとトヨタのディラーでやっていたが、今年は友人U氏推薦の「タイヤマン」という専門業者でやる予定だ。トヨタだと10万円なのが、6万円くらいで出来そうだ。4万円も違う。

しかし、車を持つということは、随分と金がかかるものだ。自動車税、車両保険、車検、冬タイヤや夏タイヤの買い替え、オイル代、修理代、そして今回のようなガソリンの高騰がある。でも、車がないと、特にここ北海道ではどうにもならない。車での外出や、買い物も出来るだけ一緒にして、ガソリン代を少しでも節約だ。

 

        

Amazonのプライムビデオは仕方ないが、Amazonでの買い物は、油断をすると金額が多くなるので要注意だ。便利なのと種類も多いので、つい買ってしまう。作った一覧表を見て、色々と経費削減の見直しをしているところだが、どれだけ削減できるのか、まだまだ考えてみよう。

「今の北海道を築いた人達」

■立派な人ばかりだった

北海道の歴史の本を何冊か読んでみたが、知らないことばかりだった。それと、名前は聞いたことがあるが、どういう人だったのか、なにをやったのかは知らず、何故か勝手に悪いイメージを持っていた。アイヌの人達をダマして、搾取していたとかね。しかし、想像してたのとは違って、立派な人達ばかりだった。深く反省しております。<(_ _)>

五稜郭を占拠した旧幕府軍の榎本武揚や、それと戦って勝利した新政府軍の黒田清隆がいる。黒田の助命運動により、榎本は命を救われ、以後は黒田の右腕として活躍した。榎本は、元々は戦いに敗れた旧幕府の困窮した人達を救うために尽力した。他に、北海道や樺太を測量した間宮林蔵、そして「北海道」と命名した松浦武四郎という探検家がいる。

北前船という、蝦夷から本州を周回する商船で活躍した商人の高田屋喜平は、自分の父親のルーツと同じ「淡路島」の極貧農家の出身だ。彼は豪商になったが、人徳があり、函館の開拓にも大いに貢献したという。当時の幕府の態度に業を煮やしていたロシアとの問題も、一商人なのに解決した。ロシアの役人からも、信頼されていたようだ。

 

              

■新選組の副長

一番有名なのは、新選組で「鬼の副長」と言われていた土方歳三だろう。彼は新政府軍と戦って、追い立てられるように徐々に北上して函館にやって来た。函館に向かう前の京都以来の新選組隊士は、わずか21人しか残っていなかったという。函館に向かう直前に、新たに編成された新しい新選組は150人ほどになった。そこでは常に温厚な態度で、戦いでは功績を上げている。

最後は、新政府軍に囲まれて孤立している味方を救うため、少数の隊員で救出に向かい、馬上で敵か味方か分からない鉄砲の弾に撃たれて、即死したと言われている。最後の言葉が「退却するものは切る」だったそうだ。敵味方が入り混じっての接戦だったので、どこから飛んできた弾か分からなかったのだろう。土方歳三は、34歳の若さだった。

遺体も見つかっておらず、埋葬地も特定されていないそうで、生存説もあるという。ただ、敵に撃たれて即死だった土方の首を味方が持って行った、という証言がある。新選組局長の近藤勇は、最後は斬首刑でさらし首になったので、その屈辱を二度とさせないということだったと。

尚、坂本龍馬は蝦夷地を目指しながら、4回も断念している。1回目は新選組に襲撃された池田屋事件が起きて、2回目は船の沈没、3回目は紀州藩の船に衝突されて沈没、4回目はイギリス人水夫殺害事件に巻き込まれて断念している。余程、縁がなかったようだが、もし龍馬が北海道に来ていたら、どうなっていたのだろう。竜馬亡き後、その一族は北見市に移住している。        

          

 

■お雇い外国人とは?

新政府に雇われたクラーク博士のような「お雇い外国人」が多数、北海道にやって来て色々な知識を広め、開拓に貢献したことを初めて知った。「お雇い外国人」とは、幕末以降に日本が近代化をするために招へいし、雇用した外国人のことで、北海道にはなんと78人もいたそうだ。その中で一番有名なのが、クラーク博士だ。

他にもエドウィン・ダンという人もいて、日本人の女性と結婚して6年半も札幌で農業、畜産、酪農の推進をした。その他にも色々な整備事業も行っていて、功績はかなり大きい。さらに地質学者のライマンは、石狩炭田を見つけた。それから、ここは日本の近代化を支えた鉱山になった。北海道の開拓や発展は、お雇い外国人の功績が非常に大きい。

■外国人女性と結婚

他にも日本人で、いずれも外国人の女性と結婚していて、北海道で活躍した人たちがいる。札幌農学校出身で「武士道」の著書で知られ、有名な教育者でもある新渡戸稲造は、留学先で米国人のメアリーと結婚している。NHKの朝ドラで有名になった、余市町のニッカウィスキー設立者「マッサン」こと、竹鶴政孝は留学先のスコットランドでリタと結婚している。

以上、この人達のことをネットで詳しく調べてみたが、それぞれ山あり谷ありの人生で、人の一生はこうして幕を閉じて行くんだなあと、感慨深いものがあった。この人達がいて、今の北海道があるのだと実感する。 

尚、これらの出典はすべて「地図で楽しむ すごい北海道 都道府県研究会 洋泉社」、「北海道の教科書  JTBパブリッシング」、「北海道の不思議事典 新人物往来社」から。 いずれも、読みやすくて分かりやすく、面白い本だ。

 

 

北海道の教科書

北海道の教科書

  • JTBパブリッシング
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北海道の不思議事典

 

「逃げ足は早いのだが…」

■悲惨だった、小中学生のときの徒競走

自分が小中学生のとき、運動会の徒競走では、ほとんどビリだった。田舎なのと親戚が多かったので、お袋や叔母さん達が観に来ていたが、自分の従弟達もみんな脚が短いこともあるのか、鈍足で似たような成績だった。お袋や叔母達は「また、ダメかぁ!」と、ゲラゲラ大笑いしていた。

自分の背が急激に伸びた、中3最後の運動会のときだ。その予行演習では、いつもの5~6人のグループ(田舎なので学年が2クラスしかなく、いつものメンバーになる)で走ったら、なんとダントツのトップだった。これは、背が伸びたせいかと大喜びした。ついに、ついにこの日がやって来たかと。        

本番の運動会の日、お袋や叔母達が観ている中で、今までの屈辱を晴らす日が来たと張り切っていた。「みんな、観てろよ!」と。 本番になり、さっそうと走り出したが、なんと予行演習のときは自分のはるか後ろを走っていた連中が、ドンドン自分を追い抜いていくではないか。ゴールしたら、またいつものようにビリだった。

しばらく茫然としていたが、やっと気づいた。こいつらのトラップに引っかかったことを。予行演習では手を抜いてわざと遅く走っていたようで、この連中がいつの間にこんなことを考えるようになったのか。中学の高学年にもなると、知恵が付いてきたようだ。知恵が付いていなくて、まんまとダマされたのは自分だけだった。       

      

         

 

■足が遅いから、なんだ!

先般、次男坊のところの下の孫が「兄ちゃん、小学校の学年で走るのが一番遅いって言われてるんだよ」と教えてくれた。確かにこの前、運動会を観に行ったとき、上の孫がダントツで皆に引き離されたのを観て、「あ~、俺の遺伝だ~!」と思った。下の孫は幼稚園児だが、徒競走は中くらいというところらしい。        

その運動会を観て、上の孫は本を読むのが好きだというので「これは文系だな!」と思い立ち、本をたくさん読ませてやろうと考えた。それから、古本だけど色々と買ってやっている。そして、その本を収納する、天井まである大型の本棚も作ってやった。本の表紙の面が見える本棚で、すぐ手が届くようにした。

走るのが遅いから、なんだってんだ。足が速くて、将来役に立つのは泥棒くらいだろ。自分は駆けっこは遅いが、逃げ足は早い。ドッジボールでは、逃げ回っていつも最後まで残った。それに、何かを頼まれそうになると、サッといなくなる特技もある。

苦手を克服するよりも、得意なことを伸ばす方が大切だ。上の孫は文系に進み、下の孫は何系かまだ分からないがイケメンなので、彼の母親は将来アイドルにして、左うちわで暮らしたいと言っている。ただ、ジャニーズはやめとけよと言ってある。

「テレビを見せていれば、楽だけどなあ」

 

■なんてこったあ~!

次男坊のところの8歳と5歳の男の孫だが、成長とともに段々と自分から離れて行くようで、少し寂しい。この前も、次男坊の家に孫の本やアイスを持って行ったが、ちょうどテレビでyoutubeのゲーム動画を見ていたらしく、次男坊に「ジイチャン、来たよ!」とうながされて、居間から出て来た。

まず上の孫がサッと出て来て、本が入った袋を渡すと「ジイチャン!ありがとう!」と言って、それを持ってサッと奥に引っ込んだ。あっという間だ。次に、下の孫がサッと出て来て、アイスの袋を渡すと「ジイチャン!ありがとう!」と言って、それを持ってまたサッと奥に引っ込んだ。2人とも、モグラ叩きのモグラのようだ。

呆然と立ち尽くしている自分が、「あ・っ・さ・り・し・て・る・ね」とつぶやくと、それを見ていた次男坊が「エヘヘ」と、困ったように笑った。最近は訪ねて行っても、親に催促されて仕方なく顔を出すが、こうしてすぐ奥に引っ込んでテレビを見たり、遊んだりしてる。この前までは、「ジイチャン、大好き~!」とか言ってたのになあ。

この寂しい後ろ姿。 まだ、杖はついていないが、あれば楽だ。

■youtubeのゲーム動画に夢中

我が家に来たときには、色々と遊んで相手をしてやるが、長時間になるとテレビを見せないとクタクタに疲れるので、最近はテレビを見せる。自分達でリモコンを操作して、Amazonプライムの中の子供向けTV番組や、最近はyoutubeのゲーム動画を見ている。この動画を見ると、夢中になって何時間でも見続けるので、途中で何度も休憩を入れさせる。

テレビを見せているとすごく楽で、横になって寝たりできる。今までは女房は仕事で、自分1人でこの孫2人の面倒を見ることが多かった。右手で上の孫と将棋を指し、左手で下の孫とチャンバラをするという具合で、会話もそれぞれ交互に相手するので大変だ。孫が帰った後は、いつも死んだように爆睡した。

ただ、それでも、あのときの方が充実感があった。今度また来たときは、半分以上はテレビを見せないで、以前のように色々なゲームや将棋やオセロやトランプなどで遊んでやろう。ただ、2人は歳が離れているので、同じ遊びをやると言わないので、1人2役をやることが多くなるが仕方ない。これでポックリ逝こうとも、我が人生に悔いなしだ。 

        

 

■テレビを見せないで、どう遊ぶか

テレビをずっと見せるというのは、もちろん目も悪くなるし、なによりも受け身一方になるので、良いことではない。実は、長男坊のところの1歳半の孫娘を預かるときも、録画した子供番組を見せると夢中になって見るので、疲れたら見せてくれと長男坊夫婦にも言われている。ただ、これくらいの歳のときは、子供の番組で色々と覚えることがある。

だから、預かるときは結構、テレビを見せている。しかし、この孫娘は目を離すとすぐ、テレビのすぐ前に行って見てしまうので、後ろに下がって孫娘を抱えて座って見せている。幼児のときに近くでテレビを見せていると、近視になったり、斜視になりやすいという。長男坊はその対策で、テレビの位置をかなり高くすると言っていた。

       

テレビを見せると、すごく楽だ。自分も女房も高齢者だから、孫の面倒を長時間みるのは大変だ。でも、出来るだけテレビを見せないで、退屈させないでどうやって遊ぶことが出来るのだろうか、色々と考える。

孫娘には、絵本を読んでやろうかと考えてもいる。ただ、今までそんなことをやったことがないので、果たしてうまく読むことができるのか不安だ。孫娘に、ジイサン臭い話し方が移って、「それでの~」とか言うようになったらどうしよう。

「1歳半の孫娘が、帰るときに泣いた?」

 

■孫娘の目に涙が…

長男坊夫婦が札幌市内の病院に行ってる間、約6時間、恵庭市のアパートで孫娘をずっと、自分1人で預かっていた。女房は登山に行っている。やっと夕方に、長男坊夫婦が帰って来たので、孫娘に「それじゃあ、ジイチャンは帰るよ。バイバイ!」と言うと、孫娘の表情は途端に曇って、目尻に涙がかすかに光っていた。

今までは、別れるときは「バイバイ」という感じで、手を振るくらいだったので、驚いた。長男坊と嫁さんに「泣いてるよ?」と言ったが、2人ともそんなことはないだろうという感じで、聞こえないふりをしてる。でも、確かに悲しんで泣いてたよなあと、ずっと思っていた。

その3日後に、今度は女房が1人で孫娘の面倒を見に行った。朝8時頃に家を出て行った。自分はいつもの病院で薬をもらわなければならないので、休むわけにはいかなかった。そして、夕方、女房は帰って来て、すぐ「私が帰る時にワンワン泣いて、もう分かるんだねえ」としんみりと言う。

          

        

 

■感傷に浸るバアチャン

本当かよと思って、長男坊にすぐラインして確認したら「本当に泣いてた」と、長男坊と嫁さんも少し驚いたようだ。まだ、そこまでの感情が育っていないと思っていたからだ。しかし、俺のときはワンワン泣かなかったのになあと悔しいから、女房には「俺のときも、足にすがってきてワンワン泣いた」と嘘をついた。 (・┰・)                                              

バカだなあと思うが、今頃女房は「孫娘が、私と別れるのを悲しんで泣いた」と、何度も何度も思い出しているのだろう。そして、「可哀想なことをした」と思って涙ぐみ、変な充実感にひたっているはずだ。実際は、孫娘は帰った後はケロッとして、バアサンのことなど忘れて、走り回ってるはずだ。

      

 

■ジイチャンのときは?

その2日後、急遽、長男坊がまた孫娘の面倒を見てくれということで、自分1人で行って来た。昼から、夕方までだ。エアコンがまだ設置されていないので、家の中が暑い。そして、帰る時に「それじゃあ、ジイチャンは帰るかなあ?」と孫娘をチラッと見ると、目を少しうるませて黙っている。再度、「さて、ジイチャンは帰るかなあ?バイバイ!」と言った。

すると、何故か孫娘は突然、服を抜ぎ上半身裸になった。長男坊が「なにやってんの?」と笑った。暑くて、バイバイどころじゃないのか。「それじゃ、ジイチャンは帰るからね」とまた言ったが、まだ暑がってる。仕方ないので玄関に向かったが、追ってこない。遠くから「それじゃあ、バイバイ!」と言っても来ない。泣かんのかーい!

長男坊と嫁さんには、「バアサンには、俺が帰るときに孫は号泣して、行くなと足にしがみついたと言ってくれ」と頼んで帰って来た。

「シャーロック・ホームズは、やばい探偵?」

■シャーロック・ホームズは、麻薬中毒で病的

Amazonビデオで、シャーロック・ホームズの無料のテレビドラマをずっと観ている。昔、イギリスのグラナダTVで製作したTVドラマシリーズ「シャーロック・ホームズの冒険」で、これが病みつきになった。結構、面白い。シーズン4まであり、シーズン2まで観終わった。

主演はジェレミー・ブレットいう人で、昔から数多く演じられたホームズの中で、原作から想像する風貌や性格や仕草が一番近く、数多いホームズ俳優の中では、最高と言われているらしい。ただ、自分はこの役者の演技がどうもぎこちなく感じて、オーバー・アクションな気がして、今ひとつなじめない。

原作のシャーロック・ホームズは麻薬中毒で(当時は市販されていた)、このテレビシリーズでも、麻薬を摂取しているようなシーンが、何度か出て来る。NHKで放送したときは、そのシーンはカットされたそうだ。だから、いつもホームズは落ち着きがなく、目の縁も充血しているようにメイクして、不健康さを打ち出しているのか。恐らく、原作ではこうなのだろう。

 

        

 

■当分、シャーロック・ホームズを楽しむ

自分が小学生の頃、学校の図書館から借りて読んだシャーロック・ホームズの人物像とはかなり違うが、正義の味方の名探偵が麻薬中毒ではちょっとマズい。「SHERLOCK (シャーロック)」という現代版のTVドラマも以前観たが、また観ている。落ち着きがなく、「退屈だ!」と言って、部屋の中で銃をぶっ放すあたりは、やはり病的だ。

毎日、「シャーロック・ホームズの冒険」か、「SHERLOCK (シャーロック)」のどちらかを観ている。しばらく、名探偵ポアロを観ていないが、ホームズを観終わると、また観る予定。当分は、この探偵シリーズで楽しむことが出来そうだが、終わった後のことを考えて、英国TVの刑事シリーズものを試しに色々と観ている。今のところ、「刑事モース」以外は今一つだ。

「現実は、こんなものなのか?」

先般、救急車で運ばれて亡くなった58歳の男性のことだが、亡くなってから数日後に親族の人が4人ほどバタバタとやって来て、2日間で亡くなった男性の部屋の荷物をあっという間に持って行った。話を聴いたら、月末なのですぐ退居しないと、翌月の家賃を払わなければならないからだと言う。

亡くなった男性の弟さんが皆を率いて、2日目に引っ越しが終わったときに弟さんと少し話したら、「いやあ、管理会社に聴いたら、来月になっても家賃を払わなくても大丈夫みたいで、急いで荷物を片付けなくても良かったなあ」と笑っていた。それで、家賃って、一体いくらなんだろと考えた。管理人には、家賃は分からない。

このマンションは、かなり家賃が安いようで、最上階でも3万円台というのは他ではまずないという話だ。だから、亡くなった男性は2階か3階だったので、家賃は3万円前後だったと思われる。その家賃を払うのが惜しくて、喪に服す間もなく、遺族が嵐の如く故人の荷物を撤去する姿を目の当たりにした。これが、現実なんだと溜息が出た。

       

自分の場合、今、ポックリと逝ったら、間違いなく女房は「あのジジイ!金は1銭も残さないで、要らないモノばかり残しやがって!」とわめき立てるだろう。息子達も、「仕事が忙しいのに、まったく迷惑だ」と文句を言うだろう。まして、金目の物は1つもないときてるんだから。

現実はこんなものだろう。亭主や父親の死を悲しむどころか、文句タラタラというところだ。だから、金は遺せないのだから、せめて不用品を今のうちから、せっせと片付けておかないとな。

「自分の居るところ、遺跡あり!」

この前、「旧島松駅逓所」を観て来てから、北海道の史跡に興味を持ち、図書館で本を何冊か借りてきた。史跡だけでなく、北海道に関する本も借りた。考えてみると北海道の各町村の地名はだいたい知ってるし、道内も一通りは周ったが、北海道の詳しい歴史についてはほとんど知らない。

今回借りた本を読んでみて、それがよく分かった。地元の「江別の遺跡をめぐる」という本を読んでみたら、ここで随分と縄文時代からの遺跡が発掘されていることを知った。しかも、我が家のこの地域から遺跡が発掘されている。江別古墳群というのもある。驚きだ。

そして、自分がここに来る前に住んでいた町にも、オホーツク文化の最大規模の集落「目梨泊(めなしどまり)遺跡」があった。当時、遺跡があるのは聞いたことがあったような気もするが、まったく関心がなかったので観に行ったことはない。家から車で10分くらいのところなので、あのとき観に行けば良かったと思うが、まあ、こういうものなのだろう。 

            

第一、オホーツク文化ってなんだ? オホーツク人って誰よ? 今まで自分は、北海道に和人が来る前は、アイヌ民族しかいないものだと思っていた。しかし、縄文時代には、縄文人が道央や道南に居たという。

本州では縄文時代から、農耕主体の弥生時代へと移行して行ったが、北海道は続縄文文化、そして擦文文化という独自の道を歩んだ。その続縄文文化時代に、樺太(サハリン)から北海道のオホーツク沿いに南下してきた、海洋狩猟民族のオホーツク人が、道北や北方領土や千島列島に広がって行った。

オホーツク人は熊に対する信仰や儀礼があり、アイヌ民族はこの風習を受け継いでいるという説もある。しかし、このオホーツク文化も突然、擦文文化に取り込まれるように姿を消した。「謎の海洋民族」と呼ばれてもいる。しかし、それじゃ、アイヌ民族はいったいどこから来たんだ? もう、なにがなにやら、訳が分からん。(出典は「北海道の教科書 JTBパブリッシング」)

 

         

解明できていないことばかりで、学者さんも分からないんだから、自分に分かるはずがない。とにかく、これから北海道の歴史について、少しずつ勉強してみようと思う。遺跡も観に行ったりしようかな。ということで、早速、9月16日(土)に江別市が行う「再発見・江別探訪・史跡見学ツアー」というのに行くことにした。参加料が500円で、バスツアーということで、腰の悪い自分でも大丈夫だ。

「旧島松・駅逓所(えきていしょ)を観てきた②」

前回の記事で、書ききれなかったことを書いた。「旧島松駅逓所」の修復には、本州から宮大工を呼んで、8年間かけて完成した。建物には鉄釘を一切使っていなく、木釘や継ぎ手で建てている。腐った柱などは、その部分だけを新しい木材と交換して、継ぎ手で修復している。その技術を道内の大工に伝えるために、サンプルも作って置いていった。

建物の壁の半分以上が「はめ戸」になっていて、隙間だらけで、冬は冷気や雪が中に入って非常に寒い。それで、土間に藁をたくさん積み、冷気が奥まで入らないようにしていたそうだ。だから、土間の幅が広くなっている。当主の中山久蔵さんは大阪出身なので、寒さに弱く、寒さ対策を色々と考えたらしい。

そして、この寒い北海道に最初にガラス窓を持って来て使ったのが、クラーク博士などの外人だったという話もあるという。これらの説明をしてくれた受付の女性は、とにかくなんでも詳しく、少し疑問点があると、自分の手書きの分厚いバインダーを持って来て、それを見て説明してくれた。ここに来て、まだ3年だそうだ。勉強家だ。

宮大工が置いていった「継ぎ手」の見本

            

隙間だらけの「はめ戸」と「継ぎ手」で修復した柱と広い土間

ところで、この「旧島松駅逓所」は来年、新たに修復作業をするそうだが、今度は明治天皇が休憩に寄ったことも、中山久蔵さんが「寒地稲作の祖」だったことなども一切触れないで、ただ「駅逓所」の説明だけにするという。受付の女性がそう言うと、「それで、いいのかなあ!」と思わず口に出た。

中山久蔵さんや明治天皇のエピソードなどの出来事すべてが、「旧島松駅逓所」の歴史なんじゃないだろうか。クラーク博士のエピソードも説明しないことにする、とも確か言っていたような気がする。しかし、ただの駅逓所の説明だけで、果たしてそれが史跡と言えるのか? 背景に色々な人間のエピソードがあるからこそ、血の通った史跡になるはずだ。

学者先生や偉いお役人に任せていたら、すべてがただの資料程度になってしまうような気がする。本来の史跡とは、そうではないと思う。 受付の女性も同じことを言っていた。色々な出来事の背景があっての「旧島松駅逓所」なんですけどねと。本当なら、実におかしな話だ。

     

 

 

ところで前回、この斜め向かいの蕎麦屋さんに友人U氏と来たときには、休業になっていたが、今回、見学を終えて外に出たら、その蕎麦屋の駐車場が満杯になっていた。受付の人に聴くと、なんでも最近テレビにこの店が出て、エグザイルのメンバーの誰かが食べに来たということで、さらに人気が出たようだ。

この店は、知る人ぞ知る名店のようで、メニューは手打ちそば1種類しかない。蕎麦好きの友人U氏が、是非行ってみたいということで行ったが、宝くじと同じで2人とも運がないようで、定休日でもないのに休みだった。 

先にいた見学客に、受付の女性が「これは金運が上がります」と説明して稲穂を渡していたのを盗み聞きし、「やった!」と思った。そして、帰る時に「あ、あの金運の上がるという稲穂をもらえますか?」と言った。本当はU氏の分ももらおうかと思ったが、さすがにそれは思いとどまった。

早速、家に帰ってから神棚に祭った。「宝くじ、当たりますように!」パンパンと。(-m-)  ところで、稲穂が金運上昇というのは、黄金色ということだからなのか? 

         

「旧島松・駅逓所(えきていしょ)を観てきた①」

■久しぶりに史跡を観に行った

先日、恵庭市にある長男坊の家に行った。朝9時に孫を保育園に預け、長男坊夫婦は札幌市内の病院に行き、その間、自分は長男坊の家に居たり、恵庭市内の店をぶらついた。孫娘はお腹の調子が今一つで、もしかしたら熱も出るかもしれないということで、そうなると保育園から帰されるので、そのときに自分に迎えに行って欲しいということだ。

恵庭近辺に居るのなら大丈夫ということで、少し前に友人U氏と来た恵庭市郊外の蕎麦屋のすぐ近くにあった「旧島松駅逓所」を観に行くことにした。長男坊の家から、車で10分くらいだった。離れた駐車場に車を停めて、「旧島松駅逓所」の外観を眺めてから、中に入った。先客の夫婦が1組いたが、自分と入れ替わりにすぐ帰ったので、観覧客は自分1人だけになった。

1人で奥まで歩いて色々と観ていたが、その後は、ずっと受付の自分と同年齢くらいの女性の説明を聴いていた。ここにまつわる、豊富なエピソードを詳しく教えてくれた。当主の話や明治天皇が来たときの話や、ここの修復に本州から宮大工が8年間も来ていたことや、建物の様々な特徴や工夫など、面白い話がたくさんあった。

 

■駅逓所とは、いかなるものか?

北広島市教育委員会のHPを読むと、「駅逓所とは、交通不便の地に駅舎と人馬を備え、宿泊や人馬の継立、運送などの便をはかるために設置されたものです。その起源は江戸時代に松前藩によって置かれたのが始まりで、明治以降も継続して設けられ、開拓期の北海道の交通や運送において、重要な役割を果たしました」と書いてある。

さらに、「かつては北海道内に、延べ六百十数か所の駅逓所がありましたが、昭和22年(1947年)に駅逓制度が廃止されると次第にその姿を消し、現在ではほとんど残存していません」と書いてある。当時は汽車などなく、交通手段は馬だった。それで「駅逓所」を約4里(約16キロ)ごとに置いたという。

駅逓所には馬を何頭も常備していたそうで、当時のここの馬小屋は、自分が車を停めた向かいの駐車場辺りにあったという。面白かったのは、明治天皇が昼飯の休憩に立ち寄るということで、急遽、その休憩する居間を増築したそうだ。しかも、明治天皇の畳の縁は由緒ある模様にしてあり、鴨居の釘隠しも鳥が飛び立つ姿の金具になっていて、凝っている。

   

 

 

 

 

■クラーク博士は、ここであの言葉を!

この建物の持ち主である中山久蔵は、大阪の出身で、明治期に北海道の道央以北で初めて米作り(赤毛種)を成功させた先駆者で「寒地稲作の祖」と称されている。帰りに、この赤毛種の稲穂を一つもらった。これを神棚に祭ったりすると金運が上がるというので、早速、我が家の神棚に祭って、ロト7の当選を祈った。これで、バッチリ当たる! はずだ。

それにしても、こういう木造建築の史跡はいいなあ。小樽や室蘭の史跡や、留萌郡小平町の鰊(にしん)番屋も昔、観たことがあった。かつて、ここを多くの人達が利用し、生活していたことを思うと想像が膨らむ。濃い飴色に変色した柱などに手を当てると、当時の人達の息吹を感じる。何人もの人達が、触れたのだろう。

「少年よ、大志を抱け!」という言葉をクラーク博士が言ったのは、この「旧島松駅逓所」でのことだ。銅像が立っている羊ヶ丘ではない。クラーク博士が、アメリカに帰国するので見送りに来た学生や職員たちと別れる際に、この言葉を言い、そして馬に乗って旅立ったそうだ。昔のことが分かると面白いものだ。史跡巡りもいいなあ。

 

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