
数日後、玄関を入ってすぐのところにある郵便ポストの一つが壊れて、業者が修理に来た。その業者は工具などを、玄関ドアの片側のところに置いていたが、そのときにあのオジサンが入って来て、つまづきそうになった。みんなが出入りするドアは右側だが、オジサンは左側を使う。
すると、すごい剣幕で「こっちのドアも、みんな出入りするんだ!あー!ここに物を置いたらダメだろうが!あー!俺の言ってることが間違ってるか!あー!」と怒鳴る。自分はすぐ謝ったが、業者の人は黙っている。早く謝れと思ったが黙ってるので、怒っていて、これは喧嘩になるかなと思った。
そしたら、オジサンは今度は自分の方をすごい形相で睨んで、「あんた管理人か?あー!管理人なら注意しないとダメだろ!あー!」と言う。「管理人か?」って、もう2度も話して、仲良くなったじゃないですか?と思い、愕然とした。「僕ですよ、僕!僕のことを忘れたんですか?」と、心の中で叫んでいた。
オジサンが部屋に戻って行った後に、怒っているのかと思った業者の人に「あの人は、ああいう人なんですよ」と言うと、「これで、修理は終わりました…」と小さな声でボソッと言う。ビビッて、固まっていたようだ。一言「すみません」と言えば、まだオジサンの怒りはおさまったのに、それすら言えないほど凍り付いていたようだ。

ということで、あのオジサンはボケてるのかなあと思ったりして、少し憂鬱になった。すぐ前のことを忘れてしまうなら、少しずつ信頼関係を築いていっても、いい関係になるのは難しいのだろうか。「また、一からかあ!参ったなあ」と考えていた。
以前は、段々と話すうちに優しい目になって、笑って話したりしていたのに、すごい形相で睨みつけてきて、別人かと思うくらいだった。管理会社の担当者に、「もう一人、あのオジサンみたいな人がいるんじゃないですよね?」と確認したが、いないという。もう一人いたら、絶望的だ。
その後、以前働いていた老人ホームの受付をやっていたときのことを思い出した。あるとき受付に座っていたら、30代の女性介護士が、高齢のオジサンが座っている車椅子を押して、エレベーターから降りてきた。
介護士が「受付の人ですよ」とそのオジサンに言うので、こちらも「こんにちわ」と言った。すると、不機嫌そうな顔をしていたオジサンが、突然「ぶん殴るぞ!」とすごい目つきをして言った。あのときの目つきと同じだった。認知症のオジサンだった。
そのときに初めて知ったが、認知症の人は介護をする人によって、態度や対応がまったく変わるということだった。不誠実だったり、適当だったりすると、機嫌が悪くて言うことをきかなかったり、激怒して暴力を振るったりするそうだ。

でも、誠実な人だと大人しく温厚になって、言うこともきちんときくらしい。認知症専門の介護老人ホームにずっといたという介護士が、「最初は大変だったけど、こちらが誠実にやっていると問題はないんです」と言っていた。認知症になると、人を見る目が鋭くなるらしい。
この車椅子のオジサン、その後、車椅子を押していた介護士を罵って、叩いたそうだ。その介護士は、数日後、辞めていった。後で、介護士の班長さんにその話をしたら、違う介護士に代わってから、オジサンは温厚になって、ニコニコして別人のようになったと聞いた。
ちなみに、「そんな80歳のジイサンくらい、ガツンと言ってやらんかい!」と思っているあなたに、お耳に入れたいことが。前の管理人が辞める少し前の日報を、入社後に偶然読んだら、そこにはオジサンと揉め事があったときに、襟首をつかまれたと書いてあった。
また或るとき、オジサンが騒いで管理会社の担当者が警察を呼び、オジサンは暴れて公務執行妨害で、何日間か留置場にお世話になった、ということも管理会社の担当者から聞いた。オジサンは、その話も自分にしてくれた。「あいつ(管理会社の担当者)、すぐ警察呼ぶんだよ」と言うので、思わず吹き出した。
ということで、オジサンには裏表なく、誠意をもって接するしかないのだろうが、自分のように不誠実で裏表しかない者は、一体どうしたらいいのだろうか。悩むところだが、調子の良さしかないか。守秘義務とかなんとか言って、結局ここまで書いてしまったが、誰も関係者が見るわけでもないので、大丈夫だろう。
本当は、この話もまだまだ続きがあり、新たな出来事や新たな事実も出てくるのだが、キリがないのでこの辺でやめておこう。それにしても、多くの人がいるところで働いていると、色々なことがあるな。