オジサン NOW

還暦過ぎたオジサンのつぶやき

「白鳥が、いない!」

 

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橋を渡って栗沢町側から撮影。道路の左手の畑に白鳥が飛来する。

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この畑いっぱいの白鳥が、土の中の虫をついばんでいる。

確かこれくらいの時期だったと思い、家からすぐ近くの夕張川のすぐ横の広大な畑に行ってみたが、毎年かなりの数の白鳥が飛来している姿は、まったく見当たらなかった。今年は雪が例年よりもかなり少なくて、薄っすらと積もった雪の上を見ても、白鳥が来た形跡がまったくない。ネットで調べてみたら、この辺りには11月上旬から12月上旬に飛来してくるようで、ぜんぜん遅すぎたと分かった。

仕方ないと諦めていたら、我が家から車で20分ほどの長沼町の千歳川の千歳橋付近に1月から3月に白鳥が飛来することが分かった。さらに、サギも飛来するそうだ。ということで、仕事が休みの日に様子を見に行って、デジカメで撮影したいと思っている。

20年以上前に道北に住んでいた頃は、浜頓別町のクッチャロ湖に家族で何度か白鳥を見に行ったことがあったが、江別に来てから自宅のすぐ近くの畑に飛来する多くの白鳥を見て驚いた。冬の夜には白鳥が我が家のすぐ上を飛んでいて、泣き声が結構大きくて、最初の頃は何の音だろうと思っていた。

それにしても、江別の白鳥飛来の場所から千歳川の千歳橋までは車で20分ほどの距離なのに、2カ月以上も飛来してくる時期が違うのだろうか。第一陣、二陣ということなのか。ここに来る白鳥はこの後は本州方面に行くようで、その途中にここ北海道で一旦羽を休め、畑の土の中にいる虫を食べて食料補給もしているようだ。

以前は、どのような飛来経路なのかハッキリと分かっていなかったが、平成17年頃から人工衛星の送信機を鳥に装着し、経路を把握することができるようになったそうだ。技術の発達は多くの謎を解明していく。元々、白鳥とはシベリアやオホーツク海の沿岸で繁殖して、冬期間は越冬と餌場が凍ってしまうため、まだ暖かい日本に向かって来るそうだ。

さらに、「日本にはオオハクチョウとコハクチョウが越冬のために渡ってきて、北海道や本州の湖沼、河川等で過ごす。晩秋から初冬に渡来し、春には飛去する。(ウィキペディア参照)」そうで、シベリア方面で繁殖して冬期間は越冬のために日本にやってきて、春になるとまたシベリア方面に帰って行くということらしい。

そういえば、この温暖化で今までの白鳥の飛来するパターンが、少しずつ変わって来るのではないかと思ったりするが、そんな兆しが少しずつ現れてきているのだろうか。厳冬のシベリアも温暖化で暖かくなり、越冬の必要がなくなった白鳥は、もう日本に来ることがなくなる、ということも考えられるのかもしれない。

ちなみに白鳥はカモ科で、空を飛ぶ鳥の中では最大の重量とのこと。調べてみると色々なことが分かって、面白い。白鳥に関する色々なサイトを見てみたが、その中でも青森県平内町ホームページ内の「ハクチョウの生態」が、画像や図解などで説明されていて、非常に分かりやすくて面白かった。

「ついに、悲願の南大通大橋!」

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南大通大橋の最後のすり付け工事

江別の上江別と東光町を結ぶ千歳川に架かる新しい橋が、ついに今年2020年3月に完成しようとしている。自分がここに20年前に来た時から、新しい橋ができるという噂があった幻の橋が、ついに現実のものとなる。もう、すでに上江別側は道路と橋のすり付けが終わって完成していて、こちらの東光町側ももう少しのように見えるが、それが終わるといよいよ開通だ。

自分は東光町側の方に住んでいるので、新しい橋が出来ると上江別にホクレンショップがあり、子供の病院やコインランドリーが橋を渡るとすぐあるので、色々と便利になる。それと、この橋の東光町側の先には337号線があるので、交通量が結構多くなるのではないかと思われる。

今まで我が家から江別市内に行くルートは、踏切を渡って12号線に出るルートと東光橋を渡って行くルートの2つがあったが、この東光橋は江別駅南口に通じる道で便利だが、古くて道路幅も狭く、両脇の歩道も自転車と歩行者が重なる時などは、自動車道にも自転車で乗る人が多くて危険だった。息子達が高校生の時は、この狭い橋を自転車で渡って行くので心配だった。

この橋も新しい橋が出来たら、おそらく老朽化も進んでいるので、拡幅工事などの改修工事をするのではないだろうか。なんといっても、江別駅南口にすぐという通りなので、この橋をなくすることはまずないだろう。今回の橋が出来て交通量が多くなり、周りに色々な店舗が出来てくると嬉しい。さらに、それに伴ってこの辺の地価も上がると、もっと嬉しい。

《追記》

東光町側から新橋を渡って上江別に出た先の道路は、すでにかなり前から2車線の道路になっていた。ただ、この先がどこにつながるのかが分からなかった。というのは、真っすぐ行くと江別高校やケーズデンキなどが近くにあり、瑞巌寺というお寺のすぐ左横に突き当たり、左右の道路に分かれるからだ。46号線にぶつかる。

そしてその真っすぐ先は畑になっていて、おそらくこの土地の所有者の誘致が上手く行かず、ここで止まっているのではないだろうかと誰かに聴いたことがある。この畑の先を地図で見てみると、情報大学近くの白樺通りに突き当たる。この辺は野幌町だ。

更にこの先は、野幌森林公園になるので、終点はここまでだろう。ここから北広島方面にも行くことができる。という計画だったのかもしれない。本当は江別市の都市計画課にでも聴いてみれば、ハッキリと分かるのだろうけど。

工事中の現場の近くまで行ってみたら、看板に工事の完成らしい月日が、3月23日と書かれていた。おそらくその変だと思うが、橋の工事などは完成が延びることも多々あるということだ。

《孫と、心配性の自分》

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自分の次男坊夫婦に子供が生まれて、1歳になった。まだ赤ん坊だと思っていたら、ハイハイやつかまり立ちをするようになり、我が家に遊びに来ると必ず自分と女房の顔を見て、口をへの字にして号泣した。しかし、この泣き顔も泣き声も、可愛いくて愛おしいと思うようになるのだから、孫とは不思議なものだ。

自分の同級生が毎年、孫と一緒に写した写真を年賀はがきの裏側に印刷してあるのを見て、「しかし、よくやるよなあ!」とあきれていたのだが、その後、自分も孫と一緒に写した写真を年賀状の裏に印刷して送った。孫が出来るとどんな人もメロメロになると聴いていたし、自分の両親の姿も見て分かっているつもりだったが、それにしても自分もこうなるとは思わなかった。

孫が赤ん坊の時はまあこんなものかと思っていたが、自分も女房も孫が成長するにつれて可愛さが増して行くと、さらに夢中になった。孫が遊びに来ると、2人で孫の取り合いになる。「いやあ~、ずるいねえー!自分ばっかり、抱っこして!」、「俺にも少し抱かせろやー!」と孫の奪い合いが始まり、次男坊の嫁さんは、いつ孫を落とすのではないかとヒヤヒヤしていたことだろう。

最近は、次男坊やその嫁さんから孫の最新の写真や動画がスマホに送られてくるのが楽しみで、届いた孫の画像を見ては幸せな気持ちになる。その孫も今年で4歳になり、下の孫も1歳になった。ただ、自分はひどい心配性なので、孫のことでも事故や病気や学校でのイジメとか、考えれば考えるほど、とにかく何でも心配になってしまう。無事になにごともなく育って欲しいと、心から願うだけだ。

我が家の子供達が、自転車で学校に通うようになった高校生の時には、部活で遅くに帰って来る2人の自転車のありとあらゆる場所に、夜光反射テープを貼った。後で社会人になった長男坊と、駅に置いてある自転車が頻繁に盗まれているという話をしていて、「よく、お前の自転車は盗まれなかったな?」と聴くと、急に長男坊は顔を赤くして荒々しげに「当たり前だわ!誰があんな反射テープだらけの自転車を盗むんだ!」と怒ったので驚いた。

「お前、嫌だったのか?」と聴くと、長男坊は「もー、恥ずかしくて、恥ずかしくて!」と言って下を向いて黙った。そのとき、きっと当時の恥かしい思い出が、彼の頭の中を走馬灯のように駆けめぐったのだろう。長男坊には悪いが、可笑しくて可笑しくて仕方なくて、後で何度も思いだしては吹き出した。孫にも、やり過ぎて怒られないようにしないとな。

※画像は、孫が書いてくれた大好きなオジイチャンの似顔絵。

「ヤンチャな父」

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自分の父は7人姉弟の4番目で小さい頃からヤンチャで、小学生の頃は年上の生徒によく喧嘩を売っていたという話を聴いたことがあった。高校の時は柔道部で、一番元気が良いのがなると言われていた先鋒を、ずっと任されていたそうだ。ヤンチャなので、色々なエピソードがあった。

土建屋を父が最初に始めて、それから田舎の山奥から兄弟達が出て来て一緒にやっていたが、そのすぐ上の兄と事務所で相手の業者と商談をしていて、相手がエスカレートして兄の顔に飲んでいたお茶をかけたそうだ。すると、その相手がすぐ土間に転がっていたそうだ。お袋が「お父ちゃんが、ぶん殴ったんだよ」と笑いながら教えてくれた。「あっという間だったよ」と。

自分が小学生の頃、休みの日に現場を見に行くかと言われて、お袋と3人で父の運転する車で行ったことがあった。現場が近くなった時、小さな川のようなところに手すりも何もないコンクリートの板が渡してある所があって、幅は車幅ギリギリで、ここを父は少しずつゆっくりと進んで渡った。

これは人が歩くために作ったので、車で通るために作ったのではないと思ったが、お袋も冷や冷やして、「こんな危ないところを、みんなも車で渡ってるの?」と父に聴いたら、「いや、俺だけだ。みんな怖がって渡らん」と言ったので、お袋が「そうでしょ!」とあきれていた。

父が車を運転している時は、いつも運転席の窓を開けて、ツバや痰をペッと外にひんぱんに吐き出していた。強い缶ピースの缶入りタバコをずっと吸っていたこともあって、口の中が荒れて気になっていたのかもしれない。これが、運転席の後ろに座っている自分や姉にとってはすごく嫌で、お袋が「これがシンガポールだったら、お父ちゃんはすぐ捕まってるよ」とよく言っていた。

しかし、この癖は自分も大人になってから自然に身についてしまい、同じことをやるようになっていた。自分の場合は鼻が悪いので、ひんぱんに口の中に垂れてくる鼻汁を何度も吐き出すのだけど、これも家人に嫌がられていた。遺伝ってあるんだなあと思った。ただ、これも風向きや吐き出す勢いによって、車に戻ってきて何度も汚れたことがあったので、その内やめた。

自分が高校生のとき、2歳上の姉と旭川の高校に通っていて下宿していた。そのとき、父が旭川に用事があって、自分と姉と姉と同じ歳の従弟の3人を、有名なラーメン屋に連れて行ってくれた。その時のことを、従弟は「俺はあの時、すごく恥かしくて恥かしくて仕方なくてなあ!」とずっと言っていた。

店舗に入るなり、父が自分達に向かって、店内に響き渡るような大声で「汚ねえ店だろ?だけど、こんな汚ねえ店ほど美味いんだぞ!」と言ったからだ。確かに、当時は店の照明は裸電球で、床はコンクリートの打ちっぱなしで、テーブルも折りたたみ式で汚い店ではあったが、それを店の人にも聞こえるような大声で言う人は、まずいないだろう。

自分が実家で、家の仕事を手伝っていたときのことだが、土建屋ということもあって多くの出稼ぎの労務者を使っていて、その人達が泊まる宿舎があった。父と父の弟の叔父が、我が家で夜9時過ぎだと思うが囲碁をやっているときに、会社の総務課長から電話がかかって来て「酔った労務者同士の喧嘩が宿舎であって、1人は刃物で刺されて、救急車が向かっている」ということだった。

父は「すぐ行ってみよう!」と立ち上がって、叔父と自分も付いて宿舎に向かった。現地で総務課長とも合流した。父は、刺した労務者が宿舎の個室で寝ていると聴いて、すぐそこに向かった。普段は大きなことを言っている叔父も、高校の時に柔道部で喧嘩ばかりしていたという猛者の総務課長もびびって、父の後ろから離れて付いて来た。

自分は父に何かあったら大変だと思って、仕方なく父のすぐ後に付いて行った。そして、その労務者の部屋の玄関に着くと、床に血の跡がポタポタと落ちていたのを見つけたときは、どうしようかと思って、玄関にあった小さなホウキを手にしていた。

父は、臆することなくどんどん部屋に進んで行き「オヤジ、居るか?」と大声で言い、「部屋に入るぞ!」と部屋の戸を開けた。暗い部屋の布団の中で、静かに寝ている労務者がいた。父が「オヤジ、起きてるか?」と言うと、布団の中でモソモソと小さな声で労務者がなにか話した。

父はそのまま部屋に上がって、寝ている労務者の枕元にあぐらをかいて座った。「どうしたんだ?喧嘩したのか?」とやさしく聴くと、労務者はまたモソモソとなにか話した。父は「そうか、それで刺したのか。でも、刺したのはマズかったなあ。警察を呼ぶからな、いいだろ?」と静かに言うと、労務者は黙ってうなづいた。

父は最後まで毅然としていた。ずっと自分は父の横にいて、相手が父に少しでも向かって来たら、持っていた小さなホウキですぐさま抵抗するつもりだった。なにしろ、寝ている労務者の枕元には、使用後と思われる包丁が置いてあったからだ。ちなみに、刺された人は軽傷だったそうだ。

父はヤンチャでワガママで横暴なところも多々あり、周りに迷惑もたくさんかけていたと思うし、自分とも仕事のことで随分と喧嘩もした。一時、自分が父の仕事を離れた時に、お袋は「これで二人が、仕事のことで喧嘩するのを見ないで済むと思うとホッとした」と言っていたほど、父とは仕事のことでぶつかってばかりいた。

父とのことでは悪い思い出が半分あるが、残り半分はいい思い出で、父への憧れもある。そんな父に、最後まで慕ってくれた人が何人かいた。ありがたいことだと思う。労務者との一件は、父の仕事に対する覚悟が見ることができた。本当の勇気とか覚悟とはこういうことなのかと、考えさせられた。父が亡くなって、16年経つ。

「宝くじが、当たったら?」

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職場の59歳のHさんと、64歳の同年齢のUさんと「宝くじが当たったら、どうする?」という話をよくしている。今まで宝くじに当たった人の、その後の人生を調べてみたら、ほとんどの人が破たんしているようなので「まず、当選しても周りに絶対に分からないようにしないとダメだな」という話しになる。

それから「1億円当たったらどうする?」、「10億円ならどうする?」ということになり、1億円当選したらHさんは道内の暖かい地域にある老人用の介護マンションを買って、夫婦で住むという。10億円なら、キャンピングカーを買って、夫婦で旅行三昧だという。

Uさんは「1年間は誰にも知られないように、今の職場にも今まで通り普通に勤めて、当選した金には一切手を付けない」と言う。ただ、Uさんに「本当に、1年間一銭も使わないで我慢できるんですか?」と聴くと、「いやあ、それは少しは使うとは思うけど」という。こういう人が一番危ない。

その点、自分は堅実そのもの。1億円当たったら、まず両親や自分の墓の手配をすべて終わらせて、それから自分の老後資金を残しておき、残りを家族に遺すということになる。堅実そのものだ。ただ、趣味のアコギとエレキ・ギターを各10本ずつ。その他にギターアンプも数台欲しい。そうなると、ギターの保管室と演奏する部屋も欲しい。

10億円当たったら、まず今の古くなった家を改築して、家の周りを全てロードヒーティングにしてカーポートも作り、除雪が一切必要ないようにする。電気代がかなりかかりそうだが、10億円もあるんだから気にしない。

そして、半地下室の木工室を作り、冬期間でも暖かく作業できるようにする。さらに、家の一室にレコーディング・ルーム兼オーディオ・ルームを作る。それと、孫が来た時に遊べるプレイ・ルームを作る。10億円もあれば、まだまだどんなことでもできる。

ということで、今年のジャンボ宝くじを30枚も買った。自分は若い頃、無欲になる時があって、ジャンケンにはよく勝ったし、当たると思い込んだら本当に当たるという不思議な力があった。今は無欲どころか、欲の塊でドロドロなので、残念ながらその力は失われてしまったようだ。あの時の力があればなあ。

それで今、宝くじに当たるために、座禅と気功をやっている。それで無欲になり、無心になって宝くじを買いに行ったらどうだろうかと考えている。ただ、無欲になったものが、宝くじの当選を願って買いに行くものだろうか。そもそも、宝くじを当てるために座禅と気功をやる、ということ自体が無欲ではない。

「宝くじなんて、ドブに金を捨てるようなもんだな!」と一応、人前では悪態をついてみせるが、内心は「なんとか、なにとぞ、お願い致します!神様、仏様、アーメン!」と祈っている。最悪の場合、せめて購入資金だけでも回収できたらと思っている。

と書いている内に、当選発表の日が来てしまった。9千円も買って、たった900円の当選かい! コンチクショー、8,100円の損だ!金返せー!もう、宝くじなんか二度と買うもんか!ドブに金を捨てるようなもんだー!

「恐怖のホワイトアウト」

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数年前、冬の吹雪の日に、女房が自宅から20分ほど離れた郊外の職場に通っていたが、仕事が終わって帰宅するのに周りが畑だらけの農道を走っていたら、突然ホワイトアウトに襲われたという。あっという間に周りが真っ白になって、前後左右まったく見えなくなったそうだ。そして、路肩に車が落ちて動かなくなってしまい、すぐJAFを電話で呼んだが「到着までに、時間がかなりかかる」と言われて、車内でどうしようかと恐怖におびえていたそうだ。

そうして数分間したら、突然さっと雪が止んで視界が開けたので辺りを見渡すと、一軒の農家みたいな家があったので、歩いて行って助けを求めに行った。家の人がすぐトラクターを出してくれ、車を路肩から車道に引き上げてくれたそうだ。後日、お礼にお菓子を買って持って行ったそうだが、とにかく、ホワイトアウトとは想像を絶する恐ろしいものだと、今でも言っている。

自分の職場の同僚も昔、仕事先から会社に戻る途中、吹雪で国道が混みあっていたので空いている農道を走ったら、ホワイトアウトに襲われたそうだ。しかも、少し周りが見えるようになって来ても、辺り一面が吹雪いた雪で平らになっていて、道路がどこなのかまったく分からず勘を頼りに走って帰ってきたが、よく道を外れて路肩に落ちず、無事に帰って来れたものだと言っていた。

その途中で路肩に落ちた車を1台見たが、自分のことで精一杯で助ける余裕などなかったそうだ。あれから比べたら、多少の吹雪など苦ではないと言っている。自分も昔、冬の吹雪の日に、家族で田舎の実家に行くのに国道を走っていたが、あまりにも渋滞しているので裏道の農道に抜けたが、これがさらにひどい吹雪と積雪でホワイトアウト寸前だった。これはまずいと思ってまた国道に戻ろうと思ったら、ずっと先を走っていた乗用車が路肩にストンと落ちたのが見えた。

少し躊躇したがこちらの方も危うい状況だったので、とにかくここを早く立ち去らなければ大変なことになると思い、なんとか引き返して国道に戻ることができた。翌日のニュースで、「乗用車が路肩に落ちて、乗っていた人はそのまま雪に埋もれて凍死」という記事が出たらどうしようかと思ったが、下手をするとこちらの方がそうなっていたので、人のことなどかまっていられなかった。

在職中は、仕事で江別から道北まで片道5時間かけて何度も走っていた。その時は、大きな町がほとんどなく、交通量も少なく、信号もあまりない275号線を主に走っていたが、冬になると大変だった。何度もホワイトアウトにあい、かすかに両脇の道路端の上に見える道路幅を示す矢印の標識を頼りに、少しずつノロノロと走っていたことがよくあった。

しかし、何度もホワイトアウトを経験していると、このホワイトアウトは長時間続くことはなく、数分間待っていると突然サッと視界が開けてくるのが分かった。そして、その時に急いで、その場所から離れることを覚えた。それが分かってからは、それほど恐れることもなくなった。

一番怖いのは、後続車に追突されることだ。ホワイトアウトの時は「その場に停まっていると危険」と聞いたことがあったが、ただ実際にノロノロ運転でも走り続けることはとても勇気がいる。とにかく前後左右まったく見えないのだから、ゆっくりでも走り続けることは、前に停まっている車に追突したり、対向車と正面衝突したり、道路から外れて路肩の外に落ちる可能性もある。それを考えると、なかなか前には進めず、その場に停まっている人が大半だろう。

吹雪の時には、周りに建物がほとんどない農道などの道を走らず、交通量が多くて周りに建物も建っている国道や道道などの大きな道路を走ると、まずホワイトアウトに会うことはない。ホワイトアウトは太陽の位置すらも分からなくなり、一切の方向が識別できなくなるので、恐怖心も半端なものではない。パニック状態になる。ちなみに、ホワイトアウトは雪山での発生が多いようだが、このように平地でもひんぱんに起きる。今まで、よく何ともなく無事だったなあと思う。

ホワイトアウトは雪だけだと思っていたら、霧のホワイトアウトもあるそうだ。それで、以前DVDビデオを借りて観た「ミスト」という洋画を思い出した。ミストとは、霧のことだ。原作が、あのスティーヴン・キングなので、怖いのは想像通りだったが、実に後味の悪い映画だった。エンディングがホワイトアウトのような霧で、その霧がサッと晴れた時に衝撃の結末が待っていて、「あーあ、もう少し待っていたらなあ」とため息をついた。ホワイトアウトは、なにもかも覆い隠してしまうのだ。

「女性限定の掲載記事」

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今はずっと道内の新聞を取っているが、その中で楽しみにしている記事が”いずみ”という、一般の人からの投稿記事だ。どれも感心したり、考えさせられたり、ホロッとさせられたり、ほほ笑んでしまうものや、感激して涙が出るような記事ばかりで、毎回楽しみに読ませてもらっている。そしていつも感心するのは、投稿者の方の文章が非常に上手なことだ。

自分の小学生並みの幼稚な文章と比べては、いつも恥かしくなって穴があったら入りたくなる。投稿者は中高齢者が多く、若い人のもたまにある。今までずっと読んでいたが、最近になって女性ばかりで男性の投稿者がいないことに気づいた。そして、この記事の投稿者は「女性限定」ということが分かったが、すぐにその理由が分かるような気がした。

男性の場合は過激になったり、自慢したり、威張ったり、話を盛ったり、美化することがあるような気がしたからだ。戦争体験の話を、高齢の男性数人に聴いた雑誌の編集者が、「何人もの戦争体験をした方の話を聴いていると、明らかに事実と違うことや美化している人が多くいたことに気づいた」と書いてあった。男性の場合は、女性よりもそういう傾向が強いのではないだろうか。

色々な高齢者のサークルに顔を出している姉が、「サークルの人達の中には、自分の高学歴とか、仕事をしていたときにどれだけ偉かったかという自慢話しをする中高年の男性が必ずいて、しかも何度も何度もその話をするので、周りから嫌われて孤立している」と、よく話していた。

中高齢者の、それも趣味のサークルで、高学歴やどれだけ大きな企業でどれだけ偉かったとかいう話は、もう誰も興味がないことで、これからの余生を楽しく生きようとするのに、それが一体なんなんだということだ。ずっと看板を背負って生きて来た、勘違いオジサンにはそれが分からないのだろう。気の毒ではあるが、孤立するのも当然だ。

男の場合は、肩書が特に幅を利かすような仕事社会にどっぷりと入り込んでいた人ほど、定年などで仕事から離れると、なかなか普通の世界に対応できないようだ。会社を辞めてから、かつての部下に今までのようにゴルフに誘っても、当然のことだが用事があると言って断られるそうだ。

それで、「冷たい」とか、「恩を忘れやがって」と怒るらしい。会社や肩書の看板を背負っていて、それにみんな嫌々従って来たことに最後まで気づかない人は不幸だ。「まだ、分からんのか!」ということだ。

かつて、若い人が主体だった個人投資家の集まりが札幌であったので、参加した。そのときに、主催者で30歳前後だと思うが、その人が色々な話をしていて「私の父の勤務先は、皆さんが知ると驚くような超大手企業で、しかもそこの重役で」と自慢気に言ったので、非常に驚いたことがあった。若いのにも、こんな奴がいるんだと。 

女性の方が、男よりも素直にあるがままのことを語るのではないだろうか。もちろん、中にはそうでない人もいると思うが、割合からいうと女性の方が圧倒的に多いのだろう。そういうこともあって、”いずみ”は女性限定になっているのかなと思う。ただ、この”いずみ”も一度、男性版をやってみたらどうなるのかという興味はあるが、すぐ炎上するかもしれない。

「カセットテープの思い出」

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今の職場で同じ歳のUさんと、「我々の時代は、カセットテープの時代だったんだね」と話していた。今のCDから比べると、カセットテープは各曲の頭出しをするには、毎回テープを巻き戻しや先送りをするので時間がかかった。CDのように一瞬で頭出しができなかった。オープンリールテープを小さくして、箱に入れたようなもんだ。

技術の進歩とはすごいものだ。今は新しい車には、CDを聴く機器が付いていないそうだ。もうCDの時代ではなくて、Bluetooth(ブルートゥース)というもので曲を飛ばしたり、ネットから配信された曲を聴くようになっているようだ。もう、なにがなんだか分からない。ただ、自分としてはCDが慣れているし、音も良くて一番使いやすい。

カセットテープと言えば、いつも思い出すことがある。あれは、自分がまだ若い頃、地方の会社に勤めていた時のことだ。仕事関係の人の結婚式が町民センターであったので出席して、指定された円卓に座って披露宴を見ていたが、余興の時間になった。同じ系列会社のKさんが司会をやっていて、そのKさんが各テーブルを周って、余興のカラオケで歌う常連のような人に、事前に打診していた。

我々のテーブルにも周ってきて、和服を着てメガネをかけた中年女性に「すごく歌が上手いと、みんな言ってますよ。歌ってもらえませんか?」と言うと、そのオバサンは「いやいや、私なんかとんでもない!他にもまだたくさん上手な人がいますよ!」とか言って、何度かそのやり取りが続いた。

そこでKさんもお決まりごとで、「いやいや、どうしても歌ってもらわないと!」と言うと、そのオバサンが突然「分かりました」と言って立ち上がった。「それならこのテープでお願いします!」と、着ていた和服の襟の中から、おもむろにカセットテープを取り出した。そして、「この会場のテープは、キーが高くって」(知ってるんかい!)と言った。自分の声のキーに合った、自前のカラオケテープを持ってきていた。最初から歌うつもりで。

さすがのKさんも動揺して、「はい、分かりました」と言ったが、顔は真っ赤だった。そのやりとりを、自分はオバサンの隣りの隣りの席でずっと見ていたが、「オバサンちゅうのは、すごいもんだな。男の方が、ずっと純情でうぶだな」と思っていた。自分が、まだ30代の頃だった。

「今年冬の降雪量は?」

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この時期になるといつも気持ちが暗くなる。原因は、これからやってくる寒さと雪だ。朝は日の出が遅くなって、今は朝6時50分頃から明るくなり、夜は16時頃から暗くなって、日照時間がかなり短い。今年は雪かきはどうだろうか、民間の除雪業者を頼まなくても大丈夫だろうかと、毎年この時期になると悩む。

冬はウツになる人が多いそうだが、よく分かる。これが、冬が終わって日照時間も長くなり暖かくなると、パーッと一気に気持ちが明るくなる。やる気力も湧いてくる。そういう気持ちは、気候にかなり左右される。

一昨年は、ほとんど雪が降らなかったので、1シーズン契約の民間除雪業者の費用約4万円が無駄になったと思い、去年は頼まなかったらえらい降って大変な目にあった。腰が悪いのに、頻繁に雪かきがあるとさすがにこたえる。

降る雪だけならまだいいが、問題は夜中や朝方に市の除雪車が路面を削って、道路脇に硬いガチガチの氷のような雪を、ドッサリと残していくことだ。雪が多い時などは胸の高さ以上まで壁のようになっていて、それを見ただけで気が遠くなって倒れそうになる。

これなら、いっそう除雪をしてもらわない方が楽だと、近所の人とよく話しをしているが、かと言って除雪車が来ないと道路に降り積もった雪で、車が走ることが出来ないので仕方ないとあきらめている。このガチガチの壁は、最初に鉄のスコップで壁を崩してから、ママさんダンプで雪捨て場まで捨てに行くから、労力も時間もかなりかかる。

今はパートの朝番で、朝6時頃には家を出ていくことが週に1日はあるので、その日の前夜か朝早くにかなりの雪が降ると、そんな状況なので大変なことになる。まず、自分の車が出せるように上記の手順で除雪をすると、約20分はかかるから、いつも起床する時間よりも早く起きないとダメだ。

自分は職場まで車で10分ほどだが、遠くから通っている職場の人達は、自宅の除雪を終わらせてから来るので、かなり早く起きなければならない。それから、職場に来てまた除雪が待っているので、それを考えると憂鬱になると言っていた。自分もなんとかそんな最悪の日に出番にならなければいいなあと、いつも思っている。

「ガスが溜まって、苦しい」

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最近、またガスが腹にひんぱんに溜まるようになった。若い頃から、とにかくガスがすぐ腹に溜まって、苦しくて仕方なかった。ガスが溜まりやすい体質なのだろうか。最初に会社に勤めた20代の頃は、仕事が終わってから仲間と頻繁に飲みに行ったのだが、飲みに行くと不思議と、ますますガスが腹に溜まって苦しくなった。

それで、段々と誰にも分からないように、音を出さずに放屁する技を身につけていった。発射音が出ない、消音器の付いた銃「サイレンサー」のようなものだ。職場の人達とススキノに飲みに行き、飲み屋から飲み屋に移動するのに道路を歩いていたら、ガスが溜まって苦しいので我慢できず、みんなと大声で話しながらコートの中で音を立てないように、歩きながらボワッボワッと何十発も放屁していた。

すると自分の上司に突然、「お前、さっきから屁たれてるべ!」と言われたので動揺した。後にも先にも自分のサイレンサーの発射がバレたのは、この時だけだった。憧れていた上司だったが、流石だと思った。職場でもトイレや誰もいない階段に行っては、よく放屁していた。                               

これもその頃のことだが、出張があって室蘭まで1人で行ったことがあった。昼頃に仕事を終えて、近くのビルの最上階にある小さな食堂に入った。自分はカウンターに座ったが客は誰もいなく、調理場も奥になっていて、調理人のオバサン1人しかいないようだった。

オバサンが注文を聴いてから奥の調理場に戻って行ったので、それまで仕事先でずっと我慢して苦しかったガスを、思う存分「ブブー!ブブブブー!」と大音量で出していたら、ふと人の気配を感じて左横の入口を見た。

すると、目を見開いて驚いた顔でこっちを見ていた中年の男性客が、1人立っていた。「これはマズイ!」と思って、座っていたイスを前後左右に尻で動かし、床とこすり合わせて大きな音を出し、「今のはこの音だよ」とごまかそうと思って、何度も何度もイスを動かそうとした。しかし、いくらやってもビクともしない。

とうとうあきらめて、鉄パイプで出来ていたイスの下を覗き込んだら、イスの足がコンクリートの床に埋め込まれていた。その後サッサと飯を食べて、逃げるように店を出た。あの客も、何が起きたか驚いただろうが、俺も驚いた。            

本屋に行くと、何故かいつもガスが出そうになる。周りをキョロキョロ見渡しながら誰もいないのを確認してなるべく静かに放屁するので、店の監視カメラには万引きの不審者と見られても仕方ない。ただ、次第にこれは自分だけではないと思った。

時々、本屋で本を探して歩いていると、突然、プ~ンと臭う場所がある。「俺の前に、ここにいた奴は誰だ? 」と辺りを見渡すが、影も形もない。周りに誰もいない一瞬の隙に放屁し、すぐその場を立ち去るのだろう。そうでなければ、後からそこに来た人にばれてしまうからだ。犯人は男性だけではなく、女性もいるとにらんでいる。        

旅行で、飛行機に長時間乗る時も大変だ。気圧の関係でガスが出やすくなるのだろうけど、ビッシリと他人と隣り合った狭い席では放屁するわけには行かず、トイレに行って出すしかない。毎回、トイレに行くわけにも行かず、苦しくて困っていたら「ガズぴた」というガスが出なくなる薬があることが分かった。これを飲むと、ガスが溜まらなくなる。

最近は歳のせいか、放屁を我慢出来ないことがよくあり、買い物をしている時にも「ブー!」と勝手に出てしまうことがある。最初は焦って周りを見渡し、急いでその場を去っていたが、今はもう慣れてしまって後ろも振り返らず、平然と立ち去るようになった。                                     

自分が小学生の時に、父親の兄弟3人が我が家に集まってあぐらをかいて座り、真剣に仕事の話をしていたことがあった。その内、1人が尻をクイッと浮かして「ブー!」っとやると、負けじと他の兄弟が続けて「ブー!」とやり、また誰かが「ブー!」とやり、もう「負けてたまるか!」という感じで、部屋中に爆音が飛び交った。お袋がそれを見ていて、「すごいね!」と笑っていたが、こんな環境の中で、自分は育った。