オジサン NOW

還暦過ぎたオジサンのつぶやき

「クラシックギターの製作」

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13年前のギター製作講習で作ったクラシックギター

13年前だが、我が家から車で30分ほどのところにある当別町で、クラシックギターを製作していた製作家の講習に半年ほど通っていたことがある。実際に、その半年間で1台のクラシックギターを作った。といっても、ほとんど先生が手を貸してくれたので、自分で作ったという実感は、あまりなかった。

ボディのサイド板を特殊なベンディング・アイロンを使って曲げたり、縁にパーフリングという薄い板を巻いたり、フレットの溝をノコで切ったり、ネックを削ったり、サウンドホール周りにロゼッタを施したりとか、その他色々と先生に逐一教えてもらいながらやっていた。

このギター製作講習を札幌のテレビ局で取材して放映したのを偶然見て、どんなものかと覗きに行ったら先生がいて、そのまま話を聴いて講習を受けることになった。先生は実家が名古屋で、元々はトヨタ自動車のエンジニアだったようだが、クラシック・ギターを作ることに憧れてトヨタをやめてギター製作の専門学校に行き、そのまま製作科になって北海道に来たということだった。

自分は本当はアコースティック・ギターを作りたかったのだが、ギター製作を教えてくれるところはここのクラシックギター製作しかなかったので、まずはそれを覚えてからアコースティックギターを作ろうと思っていた。

そうして半年間があっという間に経ってしまい、これから不器用な自分が本格的に覚えて行って生涯の趣味になると楽しみにしていたら、先生の父親が体調が悪くなったので突然、先生は名古屋の実家に帰ってしまった。

その後は途方に暮れていたが、仕方なく独学でギター製作を覚えるしかないと思って、製作道具も色々と揃えてやってみた。しかし、ギターの製作はただ外形を作るだけの飾り物ではなく、音を出すことが目的の楽器なので、緻密な作りと正確な音程や音色の調整などが不可欠だ。

とても自分のような「丁寧さよりは速さ」をモットーとしている者には、指導者なしでは無理だったので諦めた。名古屋に行った先生も、ギター製作ではなかなか食べて行けず、ギター製作も諦めたようだ。先生が名古屋に帰らずにあのままずっといたら、自分もまだギター製作をやっていたのだろうと思う。

「いずれは、真空管アンプも」

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昨日、喫茶店「一軒茶屋」に行ってきた。店主が暇だと言っていた平日の午後2時にもかかわらず、駐車場は満杯で4~5台の車が停まっていた。何故と思ったが、もしかしたら、この店が今月号のグルメ月刊誌のトップに掲載されたからなのかと思った。

テレビや雑誌で紹介された店は、それからすぐ満員になることが多い。札幌市内からでも、1時間以上かかっても、平気で食べにやって来る人が多い。午後2時にそんな状態だったので、少し先にある「由仁ガーデン」の広い駐車場で30分ほど時間を潰してから、喫茶店に戻った。すると、店主らしい人が店の道路脇に看板を設置している姿が見えた。

急いで、店主と話そうと思ってUターンして戻ったが、店主はすぐ坂の上の店に入って行った。そして、設置したばかりの看板を見たら「今日の料理のオーダーは終わりました」と書いてあり、午後3時閉店だったので、これはもう今から行っても客はまだいるようだし、店主と話す機会は無いと思ってあきらめて帰って来た。

店主に相談してスピーカーユニットを決めないと、スピーカーボックスのユニットの穴も空けられないので組立てることも出来ず、参ったなあと思った。仕方ないからもう一度自分で調べて、ユニットを決めてしまおうと思い、家に帰ってから色々と調べてみた。

結局、当初考えていた「TangBand 10cmフルレンジユニット W4-927SEF」というユニットに決めて、すぐネットで発注した。2個で約12,600円だった。後は、スピーカーボックスにユニットを入れる穴を空けて、ボックスを組み立てるだけだ。そして塗装して、ユニットを取り付けて、それで、第4作目のスピーカーは決定だ。

この第4作目の後のスピーカーは、バスレフ式の最後として「作りやすい高音質スピーカー 小澤隆久著」に書いてあった”ワイドレンジタイプの秀作Alpair10を使ったバスレフ型スピーカー”を作ろうと思っている。高さが46センチある。ユニットは2個で約3万円ほどするが、バスレフの集大成にしようと思う。

そして、そのバスレフ式のを作り終わると、今度は喫茶店の店主から勧められた本「バックロードホーン・スピーカーをつくる! 音楽之友社」に掲載されている、市販のバックロードホーンの組立てキットを買って、作ってみようと思う。そして、その次はキットのだいたいの構造を見てから、合板を買って一から自分で製作しようと考えている。

こうしてスピーカー製作をして行くと、今度は真空管アンプも欲しくなって来る。もちろん安価なもので、簡単な組み立てキット程度なら出来るかもしれない。配線などになると無理かと思うが、挑戦してみたい気持ちもある。真空管アンプも自作で、スピーカーも自作ならちょっとすごいことになるのだが、そこまではまだ考えない方が良さそうだ。今は、まずスピーカー作りに集中しよう。

「北海道夕張郡由仁町、界隈」

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由仁町の喫茶店「一軒茶屋」のことを書いていたら、今月号の道内月刊誌「HO(ほ)」の最初の店舗紹介のところに、大きく紹介されていたので驚いた。店内の写真や料理の写真、そして店主と奥様と二人で写っている写真が、掲載されている。実は、明日にでもまた行こうかと考えていて、そのときに店内の写真を少し撮らせてもらおうと考えていた。

ここの店主は、気さくな方ですごく親切に教えてくれるので、今までは客が次々と来て忙しくなると申し訳ないので、サッサと店を出ていた。明日は平日で、午後2時以降は暇だとマスターに聴いていたので、その時間帯に行ってゆっくりと話を聴いてみようと思っている。スピーカーのユニットが決まらないとボックスに空けるユニットの穴も決まらないので、先に進まない。

由仁町には「由仁ガーデン」という立派なガーデニング施設があり、近くに「ユンニの湯」という評判のいい温泉もある。近くには、有名なアイスクリーム屋や、ファームレストランなども有る。「牛小屋のアイス」というアイスクリーム店は、いつ行っても多くの人が来ている。

この店で「やっちゃん」という、レゲエ風というのかジャマイカ風というのか、そんな容姿をした女性が、色々なアイスを客の希望に応じてトッピングしてくれる。この「やっちゃん」は、テレビにも取材されて、何度か出たことがあるほどの人気者だ。

ファームレストラン「ファーム・ヤード」は今まで何回も食べに行ったことがあるが、自分のところで栽培して収穫した野菜や果物を使った料理で、いつ行っても混んでいる人気店だ。店内の壁に貼ってる有名人のサインを見ると、結構色々な人が来ていた。自分のお気に入りの店で、野菜がたくさん入ったスープカレーが好きだ。

由仁町の隣町の栗山町は、今テレビで活躍している女性お笑い芸人の「バービー」の出身地だ。栗山町の人気ラーメン店「大鵬」に、部活帰りによく食べに行ったと、テレビで話していたことがあった。この「大鵬」のネギ味噌チャーシューは、自分や女房、そして次男夫婦も大ファンで何度も食べに来ているが、札幌からも食べに来ていて、土日祝日は店の外に列を作って並んでいる。

そして、この栗山町には野球の日本ハム監督の栗山英樹さんの自宅があり、イチロー選手やら日米の名プレーヤーが使ったバットやユニホーム、サインボール、野球グッズなどを展示してあるログハウスも自宅近くにあり、さらに栗山監督がアメリカ映画の「フィールド・オブ・ドリーム」を観て、いつかはあんな球場を作りたいと思って作った「栗の樹ファーム球場」もある。

どちらも、数年前に見に行ったことがあったが、こんなところによくこれらのものを作ったなあと感心した。「一軒茶屋」に行った時に、時間が有れば久々に見に行こうかと思っている。

「有名になった、オフコース」

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数日前に、由仁町の喫茶店「一軒茶屋」に行ったとき、自分が高校生のときによく聴いていたラジオの深夜番組「オールナイトニッポン」の、人気パーソナリティ「カメちゃん」こと、亀渕昭信さん(その後、ニッポン放送の社長になった)が、小さい頃に由仁町に数年間住んでいたということを思い出した。こんな、小さな町に住んでいたことがあったんだと思った。

そして、カメちゃんが当時、まだ無名だった2人組の「オフコース」に言った言葉も、同時に思い出した。あのときは、確かオールナイトニッポンの年末のパーティ形式で、色々なフォークミュージシャンを集めての生放送だった。番組の途中に、そのミュージシャン達の生演奏を入れていて、杉田次郎が歌う前に、当時彼の前座で歌っていたオフコースという2人組のミュージシャンを紹介した。

この2人が、「でももう花はいらない」と「僕の贈りもの」の2曲を歌ったのだが、それらの曲と歌声にすごく魅かれてしまった。特に、「でももう花はいらない」は大好きになり、当時姉から譲り受けた練習用クラシックギターで、なんとか似たように弾こうとしていた。この放送を、カセットに録音していたからだ。

その2曲をオフコースが歌い終わったとき、カメちゃんが「あなた達はいずれ、有名なミュージシャンになるよ」と言った。オフコースが、まだ前座でまったくの無名だったのに。このときの会話もラジカセで全部録音してあり、後で何度も聴いたので間違いない。しかし、かなり後になってこの時の歌以外の部分を消してしまったので、カメちゃんのその時の言葉も消えてしまったが、流石に先見の明があったと言うしかない。  

この時のオフコースの印象は、とにかく「暗い」の一言だった。頼りない自分でさえが、守ってあげたいと思うくらいで、声もか細くて元気がなかった。それから、自分が東京の大学に行っていた時のことだが、たまたま下宿で聴いていたFM東京のスタジオライブにオフコースが出ていた。

なんとメンバーが3人も増えていて、増えたメンバーの一人が長島茂雄の引退試合の挨拶の真似をしたりして、ひんぱんにメンバーの笑い声が飛び交っていた。他人事ながら、「元気になって良かったなあ!」と思った。それくらい、暗かった。

「難航している4台目のスピーカー製作」

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前回、合板の欠けや凸凹を木工パテで埋めたのはいいけれど、ある疑問を感じた。それは、組み立てる時に木工ボンドで部材を接着するが、木工パテの部分がキチンと接着されるかということだ。木と違って、木工パテの部分から剥がれて来るのではないかと思い、今回は木工ボンドだけでの組み立ては、やめようかと思っている。

釘を使って、釘の頭を潰して合板の表面から釘の頭が出ないようにしようかと考えてもいる。塗装の時に、釘の頭が出ていると格好悪いと思ってのことだ。ということで、やっと次の段階に進むことになるが、とにかく作るペースが遅い。悩みが出てくると、しばらくどうするか考えるので、次に移るまでが長い。

この他にも、一番肝心なスピカ―ユニットがまだ決まっていない。今までと同じフォステクス製が無難なところだが、今回は別のメーカーのユニットの音を聞いてみたいこともあり、迷っている。それで、前回の記事に書いたが、由仁町の喫茶店を訪れて、マスターに接客で忙しい中、少しだったが話を聴いてきた。

祝日の昼ということで、客が次々と来るので申し訳ないと思って、スピーカーボックスの寸法と容量などを書いた紙と、候補に挙げている2つのユニットを印刷したのを渡して来た。また、後日、喫茶店が忙しくないという平日の午後2時過ぎに訪ねて、詳しく聴いて来ようと思っている。

由仁町にある「一軒茶屋」というこの喫茶店は、林の中にあって道路を走っていたら小さな古い看板が道路わきにあるだけで店も見えず、最初に行った時はなかなか見つからなかった。坂になっていて、途中の駐車場に車が3台ほど停まっていたので分かった。

店も古い家で、外観ではここが店だとは思わなかった。店内の明かりと内装を見て入って行ったら、すぐ右側に大きな自作のバックロードホーンのスピーカーが置いてあり、音楽を小さな音量で流していた。スピーカーは、他には端の方に知人からもらったという2~3台の小さな自作スピーカーが置いてあったが、鳴らしてはいないようだった。

それよりも、自作の小型の管球アンプが数十台も置いてあり、その隙間に色々な管球が数多く置いてあった。大きなバックロードホーンは重量もかなりあるようで、製作するのがかなり大変だったらしい。製作していたところから店舗に運ぶのが、奥様と2人がかりで、これまた大変だったらしい。もう、二度と作りたくないと言っていた。

近郊のオーディオ好きの人達が10名ほど、定期的にこの喫茶店に集まり、自作スピーカーを持って来たリ、CDを持って来たリ、音楽鑑賞に来たりしているそうだ。ただ、10月に入るとこの天井の高い喫茶店では寒さが厳しくて、集まるのは無理なので、9月末で最後の集会ということだった。来年は、参加させてもらいたいと思っている。みんなでああだこうだと、オーディオについて語り合うのは楽しそうだ。

下の画像は、左から「一軒茶屋」の外観、中は店内、右が店主自作のバックロードホーン。この画像は、北海道 総合政策部 地域創生局 地域政策課」ローカルワークストーリーから抜粋。

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「群馬・長野・山梨方面への旅行 その3」

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「何故、この旅行に決まったのか?」

この旅行が決まってから、「どうして、今回の旅行はこのツアーにしたのか?」と思い、少しずつそのときのことを思い出した。本当は、最初は4月24日に「福岡・大分・熊本・宮崎・長崎 九州5県 ぐるり周遊いいとこどり四日間」というツアーに行く予定だったが、あの4月14日の「熊本地震」が起きてツアーが中止になった。

訪れる予定だった熊本城も、無残にも一部が崩壊してしまった。女房などはそれを見て「何百年も壊れないでいたのに、どうして私たちが行くというときに壊れるんだ!」と怒っていたが、それはひとえに女房の精進が悪いということに尽きるだろう。それにしても被災に会った方達は、大変な思いをした。いつか、復興したら訪れてみたい。

その後、女房が「代わりに、いいツアーを見つけた!」と言って、5月10日発の「北海道新幹線で行く 鬼怒川温泉・草津温泉 癒しと歴史の三日間」というツアーに行くことに決めた。新しく開通した北海道新幹線に乗って、窓から景色を眺めながら駅弁を食べたり、ビールを飲んだり、おやつを食べたりということを考えて、楽しみにしていた。

そしたら、その数日後の朝刊折り込みに、違う旅行代理店なのに今回決めたツアーと内容が全く同じツアーが載っていたので驚いた。それで女房に、「同じツアーを色々な旅行代理店で扱っているんだな」と言いながらそのパンフレットを渡したら、しばらく黙って見ていた。

少し経ってから女房が、「お父さん!これがいい、これが!」と大きな声で言い、もっといいツアーがあると言う。「料金が前のより安いし、これがいい!お父さんの好きな真田丸の城も見れるからいいじゃん!私はこれがいい!」と何度も興奮して言う。

女房は旅費のことを考えて少しでも安いツアーにしようと考え、しかも「お父さんの好きな真田丸の城」と、俺のことを考えてくれたのかと思った。それで、「分かった。それでいいよ」と言うと、女房は「それじゃ、私は仕事に行くから、早く前のツアーをキャンセルして、このツアーを急いで申し込んだ方がいいよ」と言って仕事に行った。

その後すぐ、予約していたツアーをキャンセルして、新たなツアーを申し込んだ。それから少し経ってから、改めてゆっくりと今回の新たなツアーのパンフレットを見てみた。女房が気にかけてくれた真田丸の「上田城」は行く。そして北アルプスの「白馬」に泊り、そして「上高地」を観て、そして「富士山」の五合目までバスで登る…。

「何だこりゃあ、山ばっかりじゃないか!」。女房は少し前から登山をやり始めていたので、アルプス山系のあるここが気に行ったようだ。やられた。女房が人のことなど考えるわけがない。またも騙された自分に腹が立ったが、「よーし、こうなったら旅行中は山を見ても興味ない振りをして、ずっとつまらなそうな顔をしてやろう」と思っていた。

しかし、実際に行ってみると想像以上の景色や山の壮大さに、思わず感嘆の声を上げてしまった。すると女房はすかさず「やっぱり、来て良かったしょ?」と得意になって言うので、「お前にダマされて、こんな見たくもない山ばっかりのところに連れて来られた」と何度も言ったが、実は来て良かったと思っていた。

■「女房の自撮り棒」
女房は、バスの中から夢中で外の山の景色をスマホで盛んに写していたが、バスから降りると今度は自分の姿を写すことに夢中だ。それで、今までも毎回、自分に写せとうるさいので、今回は自分1人で写せるように、中国人や韓国人が旅行でよく使っている「自撮り棒」を買って与えた。

今はどこの観光地にも中国人がかなりいるようで、女房がその中に混じってやれば恥ずかしくないだろうと思っていたが、軽井沢でも富士山でも上高地でも中国人らしい人はたくさんいたが、自撮り棒で写しているような人は、ほとんど見かけなかった。

それで、嫁も最初は躊躇していたが、上高地でとうとう使ってみるというので、それぞれ好きなことをやろうと別れて自分もブラブラしていた。その内、女房が本当に自撮り棒で写しているのか気になり、見つからないようにこっそり捜したら、川岸で自撮り棒をかざして何度もポーズを取って色々な表情をして、自分を写している変なオバサンを見つけた。

女房だった。それを陰から隠れてコッソリ見ていたが、「しかし、本当にやってるよ。よくやるよなあ」と吹き出してしまった。周りを見てみると中国人のような人達もたくさんいたが、誰一人、自撮り棒で写している人はいなかった。

■「誰が見たのか?」
自称300歳のバスガイドさんのことで感心したのは、歴史の知識がすごいということだ。本人も、色々と本を読んで調べていると言っていたが、仕事で必要なこと以上のことも勉強しているというからすごい。

そのガイドさんが、いつも通りバスで通るところの戦国時代の武将の逸話を色々と話してくれたが、ひと通り話し終わってから「ただ、私いつも思うんですよねえ。それは一体、誰が見たの?って」。もちろんみんな笑ったが、確かにその通りだ。

歴史の逸話のほとんどが、勝者や生き残った者が、後から自分に都合のいいように作り変えたものだ。明治維新で幕府が倒されて新政府になった時に、討幕派の各藩の者が新政府の重要な役職に就いた。

それを見て「討幕の中心になって活躍した人は、ほとんど死んでしまった。だから今残っている者は、実際には戦いの前線や中心にいなかった者ばかりだ」と言った人がいた。いつの時代でも、そうなのだろうと思う。

というようなことも、普段はそれほど歴史が好きでもないので、ほとんど考えることがないが、本州を旅行すると史跡だらけなので、そういうことを考えたりする。まして、本やテレビで観た史跡や建造物などがあると、「本当にここに有ったんだ!ここに居たんだ!」と、感慨深い気持ちになる。

以前、坂本龍馬の定宿の「寺田屋」も観に行ったが、ここに龍馬がいたのかと思うと何とも言えない気持ちになり、何度も何度もその部屋の柱を触った。龍馬も触ったのかなあと思うと、急に近い存在になった。

今回の記事で、とりあえず旅行は終わりだ。この後の旅行はいつになるか全く分からないし、予定もない。もしかしたら、あの世に旅立つ時なのかもしれない。いつ逝ってもおかしくない歳になった。

「群馬・長野・山梨県方面への旅行 その2」

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3日目に泊った「石和温泉」だが、この「石和」が何度聴いても覚えられない。「いさわ」と読むが、これを「何と読むか分かるか?」と友人にメールを出したら、すぐ「いさわ温泉だろ」と返信が来た。何で分かったと再度メールしたら、「だって昔、東京で待ち合わせして、2人で一緒にこの温泉に行ったじゃないか」とのこと。

一生懸命思いだそうとしたが、まったく覚えていない。時々、そういう風にところどころの記憶が消えていることがある。やはり20代の中頃に違う友人と車で、北海道から京都まで行って清水寺を訪れた。初めてここに来たと思っていたのに、水を飲む場所があってヒシャクを口につけて水を一口飲んだ瞬間、突然記憶が甦った。

「俺、高校の修学旅行のとき、ここに来たわ!」。そのときも、ヒシャクで水を飲んだからだ。ちなみに、その友人は高校の時の同級生だったが、喫煙がバレて停学になって、修学旅行には来ていなかった。

最終日に山梨県の「石和温泉」のホテルを出発し、すぐ近くにある宝石店に連れていかれた。「宝石を研磨する技術は世界一」だと言う50歳くらいの、いかにも海千山千の商売人という男性に案内されて、付いていった(連れていかれた)。

最初は、宝石の原石になる石がたくさん飾られた庭園を案内され、その後に磁気だか放射線だか出てるという、黒いネックレスの説明を受けた。そしていよいよ、ショーケースが並んでいて、女性店員が5~6名いる店内に連れ込まれた。

それまで案内してくれた男性が、ショーケースの内側にいる年配の女性店員に、「詳しい説明をして下さい」と言って入れ替わった。そして、女性店員が黒いネックレスの説明を始めて、良い物とそうでない物の見分け方というのを実際に比較して教えてくれて、いよいよ販売だ。

女性店員が「普通は大手デパートなどに13.000円+消費税で卸していますが、特別にお客様達には、消費税込みで12.000円でお分け致します」と言った。すると、少し離れてそれを聴いていた先ほどの男性が、いきなりツアー客をかき分けてやって来た。

大声で「ちょっと待って下さい、〇〇さん!(女性店員の名前)せっかく北海道からわざわざ来て下さっているんです!ここは思い切って、消費税込みの9.500円にしてあげましょうよ!」と言った。

自分と女房は、まさにテレビショッピングを見ているようで、なにか照れ臭さくなって2人とも後ろを向いた。女房が「こんなの、誰も買うわけがないよね」と小声で言っていたら、ツアー客の人達が「オー!」という声を上げて、競って受付に殺到していた。

女房が「爺さん婆さんが、簡単に詐欺で騙される理由が分ったわ」と言った。自分も「そうだなあ…」と言った。しかし、実は自分も女房が一緒にいなければ、あの人達と競うように真っ先に買っていたかもしれない。

というのは、男性店員が「有名な相撲取りがいつも身に付けていて、「徹子の部屋」にもそれを身に付けて出演していた」とか、「体にすごくいい」とか、「大手デパートよりかなり安い」と言っていたので、そんなに、いいものなのかと次第に思うようになった。自分も、詐欺に真っ先に騙される口だろう。                    

今回のツアーは、朝晩はホテルの食事付で昼飯はオプションで別途、添乗員さんに注文してドライブインなどで、セットメニューをみんなと食べるということだった。2つのホテルが、それぞれ朝晩セットメニューで、1つのホテルが朝晩とバイキングだった。

ただ、今回のツアーが格安ツアーなのも一番の理由だとは思うが、平均してどれも美味いという料理がなく、魚料理などはひどかった。確かに群馬、長野、山梨は山なので仕方ないと思うが、それにしても鮮度も悪く、魚の種類も聞いたことがない魚で「信州鱒」とPRしていたのを刺身で食べたが、美味くなかった。

本場であるはずの山菜にしても漬物にしても、どれもそれほどでもなかった。唯一、美味いと思ったのは味噌汁だった。信州味噌が、名産だからなのか。「ほうとう」という鍋料理も出たが、ただ山菜を入れた鍋にうどんとカボチャも入れて食べるのだが、これがこの地方では客人をもてなす料理だというのだから驚いた。       

北海道が、本州の人達から食べ物が美味いと評判なのは、本州の方の食べ物自体がそれほど美味しいものはないからではないか、と女房と話していた。あるとしたら、京都などの懐石料理とか、江戸前寿司とか手が掛かっている高級料理しかないので、一般の人達は北海道に来ると手軽に美味しいものが食べれるから、喜ぶのだろうか。

まだ、日本国内は行っていないところばかりだが、恐らくどこで料理を食べてもそんなような気がする。自分の住んでいるところの良さが分るには、やはり他のところを知らなければならない。それで初めて、自分の住んでいるところの良さも悪さもハッキリと分ってくる。

美味しいというソフトクリームも食べたが、北海道のソフトクリームの方がずっと美味しかった。乳製品も恐らく北海道の方がレベルが高いと思う。だから、北海道の食べ物に憧れてたくさんの観光客が本州からやって来るということが、今回の旅行でよく分かった。                                     

白馬のホテルで、夜8時頃から屋外駐車場で無料の天文ショーがあったので参加した。温度が13℃位だったので浴衣姿は無理らしく、普通の服装の上に持って行った薄手のパーカーを着て行ったが、当初30名ほど居た参加者が寒さのために少しずつホテルに戻っていき、自分と女房も途中で戻った。

ボランティアだという50代くらいの男性が色々と説明してくれて、大きな望遠鏡2台を交替で覗かせてくれた。月はかなり明るく輝いてまぶしく、クレーターまでかなりハッキリと見えた。木星は1円玉より小さいサイズにしか見えなかったが、丸い惑星の中に2本のグレーの線が入っているのが分った。それらを、初めて望遠鏡で見た。

それと、日本の通信衛星の破片が今も地球の周りを猛スピードで周っているのが見えると言われ、実際にその衛星の破片が上空にあるのを見た。結構なスピードで動いていたが、そのスピードがなんと時速28.000キロで、1秒間に3キロとか想像もつかない速さで、今も地球を1日に6周もしているそうだ。想像もつかない。                         

北極星の探し方も教えてくれたのだが、このガイドさん何故かこの時になると急に威張りだして、「北極星がどこにあるのか分かる人は常識人!分らない人は非常識人!」と大声で何度も言う。もちろん参加者の全員が分らないので、みんな苦笑いしていた。

自分は大して気にしていなかったが、後日バスの中でそのときの話が出て、前の席に座っていた高齢の男性が「しかし、あんなことを言われて不愉快だったな!」と言うと、周りの人達も「そうだ、そうだ!」と言い出したので、みんな怒っていたのかと驚いた。                                     

しかし、「まあ、タダなんだから少しくらいは威張らせてやってもいいじゃないか。タダなんだから」と思った。今どき、無料の催し物はなかなかないだろうし、寒い中で、一生懸命やってくれたのだから感謝しなければ。タダなんだから。

画像は左から、上田城の門前、安曇野のわさび農場、善光寺。

「群馬・長野・山梨県方面への旅行 その1」

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2016年5月18日から5月21日の3泊4日で、女房と一緒に本州旅行に行った。新千歳空港から羽田空港まで飛行機で行き、羽田空港からはずっと観光バスで移動。泊ったホテルは1泊目が群馬県、2泊目が長野県、3泊目が山梨県と3県にまたがった。こちらの方面はほぼ初めてだったが、この辺りは北アルプスや南アルプスがあって、とにかく山ばかりで、山を見ない日はほとんどなかった。 

山道をかなり走って色々な町を通っていったが、とにかくどの道路もすごく狭い。バスや大型車がすれ違うとギリギリで、カーブでは片方が一旦停止し、片方が慎重にすれ違っていた。普通車とすれ違う時も、小さなカーブではバスが一旦停止し、相手の車が通り過ぎた後で、大きく対向車線にふくらんで曲がった。運転手さんの素晴らしい腕前に、我々は何度も感嘆の声をあげた。

トンネルも古くて非常に狭いのが多く、バス同士がすれ違う時はやはり一旦停止してかなり慎重にゆっくりとすれ違い、お互いの車の間は数センチしかなかった。バスの運転手さんの腕前は確かにすごいが、とにかくあまりにも道路やトンネルが北海道と比べると古くて狭い。これは土地の面積もあるし、歴史の深い本州と歴史の浅い北海道の違いが大きいのだろう。                                

ところで、ガイドさんも、これぞプロフェショナルという人だった。旅行初日に羽田空港に着いてから、添乗員さんにバス乗り場の方に連れていかれて、そこにいたのが我々担当のガイドさんだった。最初に見たときは、旗を持っていたのでバスまでの案内のオバサンだと思った。

年齢が80歳前後くらいだと思うが、動き出したバスで添乗員さんに代わってマイクを持ち、流暢に話し出したので、この人がガイドさんだと分かった。このガイドさんは、行く先々のことを詳しく話してくれて、歴史にも詳しく、人名や年号などもかなり覚えていた。

さらに、この店のチーズケーキは美味しいとか、カレーライスが美味しいとかいうようなことも教えてくれた。本人は「私は300年生きています」とか「即身成仏する」とか、自虐ネタも交えて我々を何度も笑わせてくれて、退屈することがなかった。非常に魅力のあるガイドさんだった。

今回の旅行では、その日に観光バスで走ったところを、夜ホテルで地図を広げて確認したりして、思わぬ楽しさを見つけた。「こんなところを走ってきたのか! この近くにはこういう所があるのか!日本の中でこういう場所に位置するのか!」等々、見れば見るほど新しい発見が出てきた。それと、行く先々の歴史や情報を事前に知ることが、楽しさを倍増させる。いや倍どころではなく、数十倍だ。

今回のツアー最終日に立ち寄った小田原のかまぼこ店のすぐ向かいにある小さい山が、豊臣秀吉が北条との戦いの小田原征伐の時に、「一夜城」と言われる城の石垣を築いたところだと、ガイドさんが説明してくれた。今、放映していて、毎週見ている「真田丸」に、これからそのことも出てくるかもしれない。実際の場所を見ると、日本の戦国史にも俄然、興味が湧いてくる。                        

それと本州は、観光バスで目的地に着くまでの間でも、北海道と違って歴史のあるところばかりなので、環境や風習も違い、車窓から通り過ぎる小さな街を見ているだけでも、すごく楽しい。ほとんどの家が瓦屋根で、どこも道路が非常に狭くて、家が道路にすごく近い。どこにでもセブンイレブンがあって、ローソンがそれほど見当たらなかった、というようなことも面白く、興味が尽きなかった。

本州の旅行は、とにかく歴史があるところばかりで、北海道のように行けども行けども何もないということがない。日程の詳細は、1日目が羽田空港から軽井沢まで行って旧軽井沢の市街を散策し、草津温泉に宿泊。2日目は上田市で真田家の上田城、そして信州の小京都と言われる小布施と善光寺に行き、白馬に宿泊した。

3日目は安曇野で公開ワサビ農場を見学、それから壮大な眺めと環境が素晴らしかった上高地を散策し、この日は石和温泉に宿泊。4日目はツアーお決まりの買い物させられる店(宝石店)に寄らされて、その後富士山の5合目までバスで行き、そして芦ノ湖に寄り、小田原の大きなかまぼこ屋に寄ってから羽田空港に向かって帰路についた。

自宅に着いたのは、午後10時40分だった。実はもう少し早く着いていたはずだったが、何と新千歳空港の駐車場で、車を駐車した場所が分らなくなり、15分ほど女房と新千歳空港の駐車場をさまよっていた。後でひらめいて、エンジンスターターを何度もONにして、エンジンがかかる音を聴いて車を探した。

最初は離れていたせいで、電波が届かなくてエンジンがかからないようだった。その内、ある場所で突然エンジンがかかる音がしたので、その音のする方に向かって行ったら、愛車が有ったー! 嬉しくてホッとした。今度からは、駐車場AとBのどちらかを確認し、駐車場番号も確認しなければダメだなあと女房と話した。

体調面では、移動のバスの中での絶え間ない間食と、寄った先々でアイスや菓子やジュースやらの暴飲暴食、そして夕食はビールということで、夜寝ていて痒くて仕方なかった。旅行から夜遅くに自宅に帰って来て、寝ようとして服を脱いで足のふくらはぎを見たら、異常に膨らんで変形していたので、すごく驚いた。

すぐ足全体を見てみたら、赤い粒のような斑点がたくさん出来ていた。これは、暴飲暴食で体重もかなり増えて血糖値がかなり上がっていたことや、1日中バスに乗っていたので、下半身の血流がかなり悪くなっていたからだろう。ひどいものだ。

それと、旅行の最終日は富士山の5合目まで行くということや、帰りの飛行機の中が行きの時のように寒いのではないかと思い、暖かくピシッと締まるモモヒキを履いていたことも原因かもしれない。エコノミー症候群になっていたら大変だった。

糖尿病と高血圧の持病があるので、楽しい旅行で調子に乗って暴飲暴食をしたりして、健康管理を怠っていると大変なことになると、反省した旅行でもあった。

 ※画像は左が「上高地」で、右側が「白馬」の宿泊ホテルから見た北アルプス山系。

「建物ウォッチング 室蘭」

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4年前の2015年10月に、1人でNHK文化センターの「建物ウォッチング 室蘭」というツアーに行った。天気は、前夜の暴風雨でどうかなあと心配していたが、朝はまだ風が少し強かったけれど雨は降っていなく、空も晴れていたので、定時通りの出発となった。集まった人を見ると、ほとんどが70歳以上と思われる高齢の男女ばかりだった。    

バスが室蘭市内に入ると、その景色に驚いた。道路の左側に小さな山が隣接していて、その傾斜にはたくさんの家が建っていた。そして道路の右側には広大な埋立地に、「日本製鋼所」と「新日鐵住金」の超巨大な工場が建ち並んでいる。

それを見た時に非常に面白い風景だと思ったが、同時に中学校の同級生3人が室蘭のこの製鋼所に集団就職で働きに来たことを思い出した。彼らがここに最初に来てこの風景を見た時に、どういう風に思ったのだろうか。中学校を卒業したばかりで、きっと、すごく不安だったのだろうと思い、その時の話をいつか聴いてみたいと思ったが、その内の2人はもうこの世にはいない。                           

一番最初に行ったのは、「旧室蘭駅」だった。ここは明治時代に建造されて北海道の駅の中では最古の木造建築物だそうだ。この駅の裏手の駐車場にバスを停めて、駅の中を見に歩いていたら、突然あることに気付いて動揺した。すぐ、同伴の講師に「この駅は、いつまで現役で使っていたんですか?40年前には現役でしたか?」と聴いた。

というのは、大学を出てすぐ札幌の会社に勤めた。そして、入社して数ヶ月経った頃に、この室蘭にある役所の入札に行かされた。そのとき、札幌駅から汽車に乗り、この旧室蘭駅に降り立ったことを思い出したからだ。あれから、40年近くも年月が経っていたのかと、胸がいっぱいになった。

駅の中の資料を見て、やはりその頃は、この駅が現役の室蘭駅として使われていたことが分かった。間違いなく40年前に、自分はこの駅に降り立った。社会人に成り立てで、なにも分からず、不安でいっぱいだった。冬だったと思うが、1人でポツンと寂しい駅に着いて、なんともいえない気持だった。そんな思い出のあるこの駅に偶然、また来ることができた。それだけでも、このツアーに参加して良かったと思った。      

その後は、その旧駅舎前の道路沿いにある昔の建造物を見てから丘の上の方にどんどんバスで登って行ったが、道路がかなり狭くて傾斜もきつく、住宅も密集していた。「これ、冬はどうなるのかな?」と自分が言うと、誰かが「冬は、雪が降らないんです」と言った。室蘭の街自体は、かなり寂れていて空き家もかなり多く、まして高齢になるとこの坂では大変なので、ここを出て行く人が多いようだ。

坂の上の方に、当時の鉄鋼会社役員の寮などがあって、外観だけをバスから降りて見てみたが、当時としては少し洋風の贅沢な造りになっていた。当時はこういう会社は独占企業で需要もあり、羽振りがかなり良かったのだろう。この道路から、室蘭港の湾内を眼下に見渡せる眺めは、素晴らしかった。                    

昼飯は「室蘭プリンスホテル」というところで食べたが、ここは元の「丸井デパート」で、明治24年に開業してから昭和56年まで営業して、当時は流行の最先端の場所だったらしい。今は、入口の外観だけ当時のレンガ作りを遺しているが、全体的に建物自体は大きいが古びていた。その周辺が室蘭の繁華街になるが、やはり廃れていて寂しく、人通りもほとんどなかった。

その後は「恵山苑」というところを観に行った。ここも坂をずっと登っていったら、江戸屋敷のような建物の門に突き当たったが、周囲を張り巡らした外壁といい江戸屋敷そのものだった。ここは「栗林商店」という会社の社長の個人所有物なので、一般の人は普通は入れないが、今回は特別に見せてもらうことになった。

「栗林商店」は明治42年創業の会社で、元は酒や味噌の販売を行っていたが、やがて海運業で名をあげて巨万の富を築いたらしい。そしてこの「恵山苑」は、創業者が室蘭にやってくる政財界の要人を、接待宿泊するために建てたものだそうだ。

広大な土地に手入れの行き届いた庭、そして神社まである。建築には京都や新潟から宮大工を呼び寄せて、釘を一本も使わないで建てて、豪華な洋間もある。室蘭にもこういうところがあったのかと驚く。当時は、石炭が全盛期で夕張などから産出した石炭を、小樽ルートと室蘭ルートで海運で本州まで運んでいたので、小樽と室蘭が同じように発展して行ったのだろう。坂が多いことといい、すべてが小樽とよく似ている。    

この「恵山苑」の和室の作りは特に素晴らしく、横に這わせている横木は1枚板で35メートルくらいの杉の木を使っていたが、こんな長いのは他にはまずないと講師が言っていた。それと鴨居の上の「長押」という部所の木材の内側を触ると、斜めに切ってあるのが昔からの本当の作り方で、普通に直角になっているのは、新たに補修した新しいものだとも言っていた。そういえばこのツアーは「建築ウォッチング」だったんだと、改めて気づいた。                                

この後、前述の「日本製鋼所」に行く予定だったらしいが、時間がまだ少し早かったようで、急遽そのすぐ近くにある「地球岬」に向かった。ここでの時間は15分間しかなく、「駐車場から階段を上がって、上の方にある展望台まで急いで行って下さい」と添乗員が言うので、希望者だけバスを降りて急ぎ足で展望台に向かった。自分も一番上の展望台で景色を見てきたが、地球岬の眺めは壮大で素晴らしかった。ただ、風が非常に強くて寒く、皆も大急ぎでバスに戻った。                    

そして、「日本製鋼所」の工場内の見学だ。入口にゲートがあって2人の守衛がいて、他に1人の女性がコピー機でコピーをとっていた。奥の建物が事務所になっているようだった。そして向かいには、なんと北洋銀行の小さい建物があった。こんな一企業の入口のゲートに、銀行の支店のようなものがあるのは、初めて見た。

それだけ、ここで働く人がかなり多いのだろう。敷地の中には、鉄道のレールがたくさん敷かれていた。重量がかなりある鉄の運搬がほとんどなので、工場間の運搬でも鉄道でないと無理ということだった。                        

その後に見に行ったのが、工場と隣接する丘の上に建つ、来賓客や上級職員などの宿泊施設の「職員倶楽部」で、洋風で洒落た造りだ。天井には、地震の時のひび跡が残っていた。この建物のさらに上の丘に、明治41年に皇太子がやってくるということで建造した「瑞泉閣」があった。豪華で、そういえば小樽でもこんな感じの部屋を見た。

当時、皇太子が2泊3日で宿泊した時に使った、色々な外国製のグルーミング用品が、ガラスケースの中に入って展示されていた。入口には、伊藤博文や東郷平八郎の書いた額が飾ってあり、伊藤博文が使った硯や筆なども展示していた。廊下の一角に昔のダイヤル電話機が置いてあったのだが、これがなんと象牙製でここまでやる必要があったのかと思い、傍にいたオジサン達にも教えてやったら「こんなことまで…」と呆れていた。

ということで、普通のツアーと違って今回の「建築ウォッチング」講習でないと見られないものがたくさんあった。普通は、個人で行っても見せてもらえないものばかりだったようだ。こんな旅行もいいもんだ。それと思いがけない旧室蘭駅のことといい、中身の濃いツアーで、来てみて本当に良かった。同じ道内でも、知らないところがたくさんあるものだ。

※画像は左から「旧室蘭駅」、「恵山荘」入り口、「地球岬」、「日本製鋼所」内にある倉庫。

「自作スピーカー第4弾は?」

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今度のスピーカーは、ボックスを今までよりも一回り大きくして、後は今までと同じバスレフだ。高さが35センチ、横幅が22センチ、奥行き22センチの寸法だ。これも本に載っていたスピーカーだ。

それで、ユニットを何にしようか悩んでいる。参考にしている本は、今から10年前に発刊されていて、ここに載っているユニットは現在、販売されていないものばかりなので、どうしようか悩んだ。それでネットで調べて、このスピーカーユニットはバスレフ向きとか、バックロードホン向きとか書いてあるのを見て、バスレフ向きというのを選んでいる。

実際には、ボックスの容量とか色々と計算して、それに有ったものということらしいが、よく分からないので、ボックスも大きくなるのだから、ユニットも今までより大きくということで考えている。参考にしている本では10㎝口径のものになっているが、今度は12~13㎝の口径のものでやってみたい。

調べてみると色々なメーカーのものがあり、1作目と3作目ではフォステクス製だったので、今回は違うメーカーのにしてみようかと思っている。値段もあまり高くないもので、2本で1万5千円位のものを考えている。

「コイズミ無線」のサイトを参考にして見ているが、1つ目は台湾の「Tangband」というメーカーの13㎝口径のもの。参考にしている本には、このメーカーのものを使うように書いてあったが同じ型番が無くなっていて、大きさも10㎝口径のものだった。

2つ目は、イタリアの「SICA」というメーカーの13㎝口径のもの。この他に、フォステクスの評判の良い12㎝口径のものがあったが、フォステクスは今回はやめておこうと思っているので、上記2つの中から選ぼうと思っている。

ところで、図書館に「ステレオ」という雑誌のバックナンバーで「自作スピーカー特集」というのがあった。読んでいたら、我が家から車で30分ほどの由仁町で「自作スピーカーを作る会」というのをやっている、という記事を見てびっくりした。スマホで、記事を写してきた。

主催者の名前が書いてあったので、早速家に帰って来てからネットで調べてみたら、東京から移住して来て、由仁町で喫茶店をやっているようだ。いつか行ってみようと思っている。恐らく、この江別市内にも自作スピーカーをやっている人がいると思うが、知り合えたら色々と情報交換して、知識も楽しみも倍増する。輪が広がって行くと楽しい。

今回のスピーカーボックスの材料は、前回作ったスピーカーと同じ180cm×90cmの一枚板の合板から、指定したサイズでホームセンターに切ってもらった。やはり木が粗くて中芯が欠けていたり、小さな穴が空いていたりしたので、今回は木工用パテを使って埋めてみた。

これから、この木工パテを塗ったところも均して、さらに材料すべてにやすり掛けして、凹凸をなくしてきれいにしていく。そして組立ててから、粗いところは電動サンダーで修正して、全体もキレイに均し、そして木口はシーラーというのを使って、埋めて均そうと思っている。そうしたら、塗料が吸い込まなくなるのでキレイに出来るのではないかと思っているが、どうなるか。