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還暦過ぎたオジサンのつぶやき

「旧島松・駅逓所(えきていしょ)を観てきた①」

■久しぶりに史跡を観に行った

先日、恵庭市にある長男坊の家に行った。朝9時に孫を保育園に預け、長男坊夫婦は札幌市内の病院に行き、その間、自分は長男坊の家に居たり、恵庭市内の店をぶらついた。孫娘はお腹の調子が今一つで、もしかしたら熱も出るかもしれないということで、そうなると保育園から帰されるので、そのときに自分に迎えに行って欲しいということだ。

恵庭近辺に居るのなら大丈夫ということで、少し前に友人U氏と来た恵庭市郊外の蕎麦屋のすぐ近くにあった「旧島松駅逓所」を観に行くことにした。長男坊の家から、車で10分くらいだった。離れた駐車場に車を停めて、「旧島松駅逓所」の外観を眺めてから、中に入った。先客の夫婦が1組いたが、自分と入れ替わりにすぐ帰ったので、観覧客は自分1人だけになった。

1人で奥まで歩いて色々と観ていたが、その後は、ずっと受付の自分と同年齢くらいの女性の説明を聴いていた。ここにまつわる、豊富なエピソードを詳しく教えてくれた。当主の話や明治天皇が来たときの話や、ここの修復に本州から宮大工が8年間も来ていたことや、建物の様々な特徴や工夫など、面白い話がたくさんあった。

 

■駅逓所とは、いかなるものか?

北広島市教育委員会のHPを読むと、「駅逓所とは、交通不便の地に駅舎と人馬を備え、宿泊や人馬の継立、運送などの便をはかるために設置されたものです。その起源は江戸時代に松前藩によって置かれたのが始まりで、明治以降も継続して設けられ、開拓期の北海道の交通や運送において、重要な役割を果たしました」と書いてある。

さらに、「かつては北海道内に、延べ六百十数か所の駅逓所がありましたが、昭和22年(1947年)に駅逓制度が廃止されると次第にその姿を消し、現在ではほとんど残存していません」と書いてある。当時は汽車などなく、交通手段は馬だった。それで「駅逓所」を約4里(約16キロ)ごとに置いたという。

駅逓所には馬を何頭も常備していたそうで、当時のここの馬小屋は、自分が車を停めた向かいの駐車場辺りにあったという。面白かったのは、明治天皇が昼飯の休憩に立ち寄るということで、急遽、その休憩する居間を増築したそうだ。しかも、明治天皇の畳の縁は由緒ある模様にしてあり、鴨居の釘隠しも鳥が飛び立つ姿の金具になっていて、凝っている。

   

 

 

 

 

■クラーク博士は、ここであの言葉を!

この建物の持ち主である中山久蔵は、大阪の出身で、明治期に北海道の道央以北で初めて米作り(赤毛種)を成功させた先駆者で「寒地稲作の祖」と称されている。帰りに、この赤毛種の稲穂を一つもらった。これを神棚に祭ったりすると金運が上がるというので、早速、我が家の神棚に祭って、ロト7の当選を祈った。これで、バッチリ当たる! はずだ。

それにしても、こういう木造建築の史跡はいいなあ。小樽や室蘭の史跡や、留萌郡小平町の鰊(にしん)番屋も昔、観たことがあった。かつて、ここを多くの人達が利用し、生活していたことを思うと想像が膨らむ。濃い飴色に変色した柱などに手を当てると、当時の人達の息吹を感じる。何人もの人達が、触れたのだろう。

「少年よ、大志を抱け!」という言葉をクラーク博士が言ったのは、この「旧島松駅逓所」でのことだ。銅像が立っている羊ヶ丘ではない。クラーク博士が、アメリカに帰国するので見送りに来た学生や職員たちと別れる際に、この言葉を言い、そして馬に乗って旅立ったそうだ。昔のことが分かると面白いものだ。史跡巡りもいいなあ。

 

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