オジサン NOW

還暦過ぎたオジサンのつぶやき

「光輝いて見えた、見慣れたはずの雑木林」

今もそうだがアウトドア派ではないので、昔から自然にはあまり関心がない。そんな自分だが、中学校を卒業して旭川の高校に進学して、最初の夏休みに実家に帰り、休みが終わって、また旭川に戻るときのことだった。一番近くのJRの駅に行くまで、バスで1時間ほど走る。そのときに何故か、周りの見慣れた雑木林を見て、もう2度とこの景色を見られないのではないかと思った。

すると、見慣れたはずの周りの雑木林や景色が、突然キラキラと輝き始めた。もう2度と見れないんだと思うと、見納めのような気持ちになり、急にすべての景色が愛おしくなり、胸がいっぱいになった。そんな気持ちになったのは、それまでも、そして今に至るまで、一度もない。

もしかすると、自分が死ぬ時にそう思うのかなという気がする。この世界のものと、これでお別れだと思うと、そういう気持ちになるのかな。「一期一会」という言葉があるが、確かにそういう気持ちでいつも、人や物事に接したり見ていると、自分の気持ちや見方は、大きく変わるのだろう。 

しかし、そうは思っていても、そういう気持ちにはなかなかなれないのが人間だ。そうなれたら、いいのにと思う。もしかしたら、事故や病気で今すぐか、明日にでもポックリと逝くかもしれないので、出来ることなら、日々これで最後という気持ちで生きて行けたらいいのにと思ったりもする。

「今日、一日を生きる」ということは、そういうことなのか。先般、97歳で亡くなった西野流呼吸法の創始者”西野皓三氏”は、「今この時が、すべて」と言っていた。ラテン語で「カルぺ・ディエム」という言葉がある。「今日という日を摘め」という意味で、「今を生きる」とも訳されている。はるか、古代ローマ時代からも言われて来た、今も昔も変わらない「真実」ということなのだろうか。